牛 窓
  
  神功皇后伝説    塵輪鬼ちんりんき 牛鬼ぎゅうき
    (岡山藩士大澤惟貞「吉備温故秘録」・逸文「備前風土記」など
哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后が同道で三韓に向かう途次のこと、牛窓の浦で、塵

輪鬼(ちんりんき)という頭の八つある怪物が、黒雲に乗って襲ってきた。天皇が討つと、首と胴と

に分かれて海に落ちた。
首は鬼島(きしま・今の黄島)、胴は塵輪島(今の前島)、尾は尾島(今の

青島)となった

かし、鬼も天皇を矢で射り、そのため天皇は崩じた。そのとき、皇后は海辺を逃げる異人の王

子を見付け、追い射止めた。それは、新羅の王子「唐琴(からこと)」であった。そこで、この牛窓

の瀬戸を「唐琴の瀬戸」と呼んだという。

の後、皇后は住吉明神(今の五香宮[ごこうぐう])に戦勝祈願し、男装して出征した。凱旋の途

次、この浦にさしかかったとき、塵輪鬼の魂魄が牛鬼となって船を覆そうとした。その時、住吉明神

が白髪の翁となって現れ、牛鬼の角を捉えて投げ倒した。そこでこの地を、「牛転(うしまろび)」と

言うようになったが、のちに訛って「牛窓(うしまど)」となった。牛鬼の死骸は骸島(むくろじま・今の

黒島)となり、腸(はらわた)が百尋岨(ひゃくひろそわえ)となった。
       大伯おおくの海の話
            ( 日 本 書 紀 

明七年(661)正月六日、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、のちの天智天皇)が陣頭指揮し、

68歳の老女帝と弟の大海人皇子(おおあまのみこ、のちの天武天皇)を擁した百済救援の大軍船

団が、難波の港を出た。西に向い、やがて牛窓沖の海に差しかかった。この牛窓のあたりは「邑久

の郡(こおり)」と呼ばれ、和名抄は「邑久」を「於保久(おおく)」と読ませ、日本書紀には「大伯」とあ

る。(現在は「おく」と呼んでいる)

辰(きのえのたつ)の日(一月八日)、御船(みふね)、大伯海(おほくのうみ)に到る。時に大田

姫皇女(おほたひめのひめみこ)、女(ひめみこ)を産む。よりてこの女を名づけて大伯皇女(おおく

のひめみこ)と曰(い)ふ。庚戌(かのえいぬ)の日(一月十四日)、御船、伊予の熟田津の石湯行

宮(いはゆのかりみや)に泊(はて)ぬ。(熟田津、これをば「にきたつ」といふ)

田姫皇女は、中大兄皇子の娘で、大海人皇子の妃であり、同じく大海人皇子の妃となっていた

「うののさららの皇女(のちの持統天皇)」の異母妹である。また、この海の上で生まれた大伯皇女

(おおくのひめみこ)は、のちに悲劇の主人公となる大津皇子(おおつのみこ=この翌々年に娜大

津(なのおおつ、今の博多の港)で誕生)の実姉である。

 
万葉の悲劇 その七「不倶戴天」 その八「姉弟」 および 「系図」 参照
 
             
       万葉の歌    待 つ 女

  巻十一  2731

     牛窓の 波の潮騒  島響(とよ)み  寄そりし君は(寄さえし君は)
  
      
逢はずかもあらむ


         牛窓之 浪乃塩左猪 嶋響 所依之君 不相鴨将有

  牛窓の波が立って潮騒が島を響かせるように(序詞) 噂されたあなたは、もう私に逢いには来
  
  てくださらないのでしょうか

    潮騒の海  牛窓東町の港より前島を望む 
           
左の灯台は、前島城ケ鼻の灯台
   万葉の歌碑   牛窓神社の登り口にある

                         牛窓の憂愁    室の浦辛荷島    瀬戸内万葉の旅