万 葉 の 悲 劇  その7
不 倶 戴 天
                  
 
  の人の眠りは、しずかに覚めて行った。真っ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの 澱んでいるなかに、目の開いて来るのを覚えたのである。 したした した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずとまつげとまつげとが離れて来る。         
 これは、大津皇子(おおつのみこ)の木乃伊(みいら)が、二上山の墓穴の長い眠りから覚めて動き始める、釈超空(しゃくちょうくう)「死者の書」の冒頭である。
 
 大津皇子は反逆の罪で処刑され、大和盆地の西を限る二上山(ふたがみやま)の男岳 (おだけ)に葬られた。人々は、あの賢い皇子が謀反を起こす筈はない、母方の叔母である皇后の陰謀に陥れられたのだとひそめいた。しかし、彼は生前、既にこの日を予想した。叔母には、目に入れても痛くない息子草壁皇子(くさかべのみこ)がいた。草壁は異母の兄に当たり、幼い時から二人はいつも比べられてきた。そして、すべての面で彼・大津の方がすぐれていた。                
 彼は、堂々たる体躯で、度量も大きく、雄弁で、幼くして学問を好んだ。父方の伯父で、母方の祖父の天智天皇に、特別に愛された。これがまた、叔母には大いに気に障った。長じては剣の道を愛し、詩賦を振興した。    
 肉親の血で血を洗った壬申乱(672年)には、父に従い戦った。まだ十歳の少年だった。父は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位し天武天皇となる。叔母が皇后に、兄が皇太子に立った。十二歳の時、同母の姉大伯皇女(おおくのひめみこ)が、斎宮(いつきのみや)として伊勢に向かった。その二年後、母・太田皇女(おおたのひめみこ)が亡くなった。心を許す肉親はいなくなった。しかし門前は、彼の皇太子を凌ぐ力量を頼んで、市をなした。
 
 叔母の皇后にとって、もはや看過できないことであった。息子皇太子の天下を脅かすも のは彼をおいて外にない。不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であった。大津十七歳の時、天皇は皇子間の亀裂を防ぐため、六人の皇子を吉野に呼び協力を誓わせた。世に言う六皇子の盟(ろくおうじのちかい)である。
かし、二人の対立はゆくりなくも一人の女性をめぐって決定的になった。女の名は石川郎女(いしかわのいらつめ)。兄皇太子は恋の歌を贈るが返事がない。一方、大津と郎女(いらつめ)とには次のような相問があった。     
 
あしびきの 山の雫(しづく)に 妹(いも)待つと われ立ち濡れぬ 山の雫に
(あなたを待っているうちに、山のしずくに濡れてしまったよ)      
吾(わ)を待つと 君が濡れけむ 足引きの 山の雫に ならましものを
(私を待って濡れたという山のしずくに、私がなりたかったのに)     
 
 廿四歳(六八六)の夏五月、父天武(てんむ)が病を得た。父も既に六十五歳であった。彼の周囲が急に慌ただしくなった。新羅(しらぎ)の僧・行心(ぎょうしん)が言う「あなたのような人相の人が長らく臣下にいたら、身を滅ぼします」と。人々は謀反を勧めた。
 秋になって、彼は伊勢の姉を訪ねた。忍びの旅であった。姉は最後の別れになるやも知れぬ事を予感していた。                 

わが背子を 大和へ遣ると 小夜更けて 暁(あかとき)露に 吾が立ち濡れし
(愛する弟を大和へ帰すとて夜更け、未明の露に濡れてしまった)     
 晩秋重陽(ちょうよう)9月9日、遂に天武天皇が逝(ゆ)く。友人で母の弟の河島皇子(かわしまのみこ)が、朝廷に大津の謀反を告げ口し、10月2日皇子以下三十余名が捕縛。翌3日には皇子処刑。裁きの場はなく、しかも、他の人々は許された。彼を処刑するだけが目的のような異例な措置であった。


   
辞世の歌         
百(もも)伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
(磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日を限り、私は死んで行く)      
 
 彼の妃・山辺皇女(やまのべのひめみこ、父は天智天皇)が髪振り乱し素足で駆けて殉死(じゅんし)した。見る人も聞く人も皆泣いた。罪人の墓は遠い山上に置かれた。 しかし、この二上山は、大和国中の人々には、日の沈む浄い山。金色夕日に浮かぶ乳房にも似た男岳と女岳は、今も信仰の山である。        
      
                    (一九九二年十月十二日「桐一葉」第十三号より)
                 
研究資 
         
 大津皇子系図