万 葉 の 悲 劇 そ の 8 |
姉 弟 (はらから) |
661年正月6日の難波(なにわ)の港は喧騒の(けんそう)の中にあった。百済(くだら)救援のため、斉明(さいめい)女帝自ら陣頭に立ち皇太子中大兄(なかのおおえ)や、諸皇子とその妃(きさき)たちをはじめ、百官および多数の兵士たちが、大船団を組んで西に向かった。
船団が大伯の海[岡山県邑久(おく)郡牛窓(うしまど)あたり]にかかった時、皇太子の娘で大海人皇子(おおあまのみこ)の妃である大田皇女(おおたのひめみこ)が、女児を産んだ。海の名に因み、大伯皇女(おおくのひめみこ)と命名された。やがて、一行は伊予の熟田津(にぎたづ)に着き、物資と兵の調達のため2か月停泊した。額田王(ぬかたのおおきみ)の「熟田津の歌」はこの時のものである。
三月、目指す娜大津(なのおおつ・博多)に着くや、女帝は病に倒れた。皇太子が九州の地で実権を執った。翌年、大田皇女の実妹で、同じく大海人皇子の妃であるア野皇女(うののひめみこ、後の持統天皇)が草壁皇子(くさかべのみこ)を産み、翌663年には、大田皇女が大津皇子(おおつのみこ)を産んだ。こうしてこの九州の地で、皇位継承を巡る悲劇の登場人物達が勢揃いするのである。
舞台は回って、686年冬、大津皇子の処刑を聞いた姉の大伯皇女は、伊勢から大和へ向かって、名張(なばり)の山を越えていた。3か月前、伊勢で弟を見送った時のことが昨日のように蘇ってくる。
二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が 一人越ゆらむ
弟が前途の不安を抱いて越えたその山道を、今は絶望を背負って自分が一人で越えている。弟が見たであろう紅葉は、今は、凍てつく雪景色に変わっている。
見まく欲(ほ)り 吾がする君も あらなく なにしか来けむ 馬疲るるに
私が会いたいと願っている君(弟)もいないのに、何のために来たのであろう。いたずらに馬が疲れるばかりなのに。
実際には、弟の謀反(むほん)により、14歳から12年間務めた伊勢斎宮(いせのさいぐう)を免官となり、帰京せざるを得ないのであるが。
した、した、した、と大津皇子の墓穴から滴った水は、熔岩円頂丘の二上山(ふたがみやま)の中を落ちて、二つの峯のコルから湧出す。その清洌な流れの岩の上に、釣鐘状の小花を房に束ねた馬酔木(あしび)の花が咲いている。
磯(いそ)の上に 生ふるあしびを 手折らめど
見すべき君が ありといはなくに
巌(いわお)の上のあしびを手折るけれども、それを見せる君が生きていらっしゃると誰もいってはくれない。
あしびの花の背後には、弟の眠る山の頂が、覆うように聳えている。
うつそみの 人なる吾や 明日よりは 二上山を 弟と吾が見む
この世の私は、明日からは、あの山を弟と考えて生きていこう。
六歳で母を失い、今また父と弟を失った26歳の女性が、弟の死に関わった叔母持統天皇の下で、ひとりで生きていこうとする決意でもあった。あしびの可憐な花と、優しく覆う山容は、凍てついた彼女の心を次第に融かしていく。大和の春が、とくとくと染み渡っていた。 (一九九三年二月二十四日「桐一葉」第十四号より)
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