牛 窓 の 憂 愁 |
「鞆の浦万葉の会」では、平成二十年十月に船で児島・牛窓を訪ねました。
「倭道の吉備の児島を過ぎて行かば 筑紫の児島思ほえむかも」(九六七 大伴旅人) と
「牛窓の波の潮騒島響(とよ)み 寄さえし君に逢はずかもあらむ」(二七三一 作者不詳) の歌碑を見るためです。
いつものように鞆港から船出して、児島の港に入り、小雨の中を児島の図書館にある万葉歌碑を訪ね、旅人の歌を朗唱。船にもどって牛窓を目指す。船中で昼食弁当。小雨と靄で島影も朧にかすみ、波も次第に高くなり始めました。牛窓の港に入ると、雨が強くなってきました。
古代から明治まで、地乗りの手漕ぎ船の風待ち潮待ちの港町として栄えました。しかし、動力船は沖乗り航路を利用するため牛窓には立ち寄らないので、港町としての賑わいは衰えました。
今は日本のエーゲ海と銘うって観光に力を入れています。昔の段々畑はオリーブ園に代わり、ヨットハーバーを備える白亜のリゾートホテルが建ち、瀬戸をはさんで沖の前島にはトレッキングコースが出来て、若者を呼び込んでいます。
私は牛窓には何度か来ていますが、いつも波が穏やかで、明るい日射しのなか、エーゲ海もかくあらんという思いがしていました。本蓮寺下の旧道の古い町並みを歩いても、江戸時代の朝鮮通信使一行の華やかな行列や踊りなどが想像されて、牛窓は常に明るいイメージの港町でした。
どころが今回は違っていました。傘をさして暗い木立の中の石段を登り、本蓮寺の本堂に着きました。一行が登って来るのを待つ間、境内を廻っていると石碑が眼に止まりました。それは女王丸という貨客船の遭難碑でした。
昭和二三年一月二八日大阪と多度津とを結ぶ定期航路の貨客船「女王丸」が牛窓の沖で触雷して沈没、乗客乗員合わせて死者行方不明者二百余名。終戦間際にアメリカ軍のB29が投下していた磁化機雷に触れたとのこと。本蓮寺の本殿と祖師堂が死体安置所になったといいます。この地でそんな悲しい出来事があったのです。
そもそも「牛窓」という地名伝説は、エーゲ海の明るいイメージとはかけ離れています。逸文「備前風土記」や岡山藩士大沢惟貞の「吉備温故知秘録」によると、仲哀天皇と神功皇后が同道で三韓遠征の時、この浦で塵輪鬼(ちんりんき)という怪物が黒雲に乗り襲ってきました。天皇が討つと、首と胴に分かれ、首は鬼島(今の黄島)・胴は塵輪島(今の前島)・尾は尾島(今の青島)となりまた。しかし、そのとき受けた塵輪鬼の矢で天皇は崩じました。また皇后は逃げる異人の王子を見つけ射止めると名を唐琴(からこと)といいました。そこで、この地の瀬戸を唐琴の瀬戸と呼ぶようになりました。
その後、皇后は住吉明神(五香宮)に戦勝祈願し、男装で出征しました。凱旋の帰途この浦にさしかかった時、今度は塵輪鬼の魂魄が牛鬼(ぎゅうき)となって船を襲ってきました、とそのとき住吉明神が白髪の翁となって現れ、牛鬼の角を捉えて投げ倒しました。そこでこの地を牛転(うしまろび)と言い、のちに訛って牛窓(うしまど)となりました。牛鬼の骸は骸島(むくろじま、今の黒島)に、腸(はらわた)は百尋岨(ひゃくひろそはえ)となったとか。
ところで、例の女王丸の遭難者の最初の救助に向かったのは、この前島(塵輪鬼の胴)と黒島(牛鬼の骸)の人々だったといいます。皇后と女王。何か因縁めいたものを感じます。この牛窓あたりの海は、日本書紀では「大伯海(おほくのうみ)」(和名抄では「邑久(おおく)」、現在は「おく」とよむ)とあります。大伯皇女の生まれたことで知られます。しかし、この地名伝説は、このおだやかな海が台風などでひとたび荒れると、怒濤逆巻く大変危険な海に変貌することを意味しているようです。特に百尋岨は以前は座礁する船が多く、船乗りから恐れられていたと聞きます。
さて、本蓮寺をあとに、人影のない雨に濡れた土蔵や締め切られた格子戸の古い街並み(その名も唐琴通り)を抜けて、東の燈籠堂まで来ると、海から急に風が吹きつけてきました。木造船を造る工場もすべて閉め切られています。以前来た時はいつも木材を切る音や塗料の匂いで充ちていました。夏は子供の喚声と西瓜やかき氷の売店で賑わう海水浴場は、激しく波が打ち寄せて、潮騒の音に地が鳴り響いていました。
「待つ女」の万葉碑の前でみんなで朗唱する声も、風雨と潮騒でかき消されてしまいます。傘も役立たないほど海からの風は激しい。この万葉の歌の「牛窓の波の潮騒島響み」は、単なる序詞でもなく、また誇張でもないのです。そのことを身をもって体験したのでした。波が島を響かせるように噂されるこの「寄さえし君」は、船乗りでありましょうか。海が荒れる日は「港の女」は待つしかないのです。
港に引き返す途中、格子戸の家の二階の雨戸が開いて、海を眺めて憂いを含む女の顔を、一瞬私は見たような気がしました。
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