二 つ の 神 島 (かみしま)
                     川 野  正 博
  の属する「鞆の浦万葉の会」では、昨年8月、福山の神島(かしま)を歩き、今年の6月、笠岡の神島(こうのしま)を歩きました。ともに地元が万葉の故地「神島(かみしま)」だと主張している場所です。万葉集には「神島」が二箇所出てきます。
 
◎ 万葉集巻十三 3339 備後国(きびのみちのしり)の神島(かみしま)の浜にして、調使首(つきのおみのおびと)、屍(しかばね)を見て造る歌
長歌(口語訳); 
  旅に出て 野を行き山を行き 川を渡り 海路に出て   
  吹く風ものどかに吹かず 立つ波ものどかには立たず 
   「恐(かしこ)きや神の渡りの」(恐ろしい神がいらっしゃる難所の)  
    岸に寄せる波の浜辺に 高山を屏風にし 浦波を枕にして 
  無心に寝ている君は 母や父のいとし子であろう 
  妻もいるだろうに 家を尋ねても家道も言わず 名を尋ねても  
    名さえ告げない 誰の言いつけを大事に思って うねりの波の
  この恐ろしい海を まっすぐに渡ってきたのであろうか 
 
反歌(短歌)が4首ある。その一つ、
  家人の待つらむものをつれもなき
           荒磯(ありそ)をまきて伏せる君かも
 (家の人たちが待っているだろうに 
           縁もない荒い磯を枕にして寝ている君よ)
 
◎  万葉集巻十五 3599 遣新羅使人(けんしらぎしじん、736年新羅との交渉に派遣されたの官人)の歌
 月読(つくよみ)の 光を清み 神島(かみしま)の 
           磯廻(いそみ)の浦ゆ 船出す我は
 (月の光が清らかなので 神島の
           磯辺の浦から船出するよ わたしは)
 一行は玉の浦(現在の玉島付近)から神島に来て、次の停泊地の鞆の浦に向かっています。
 
 岡の神島(こうのしま)は、現在は北側が埋め立てられ陸続きになっていて、真ん中に道路が敷かれ両側が牧草地なっています。北側には内浦の港があったのですが、今は埋め立てられています。東側は水路になっていて神島大橋がかかっています。埋めたて前まではこの橋が島へ渡る 唯一の道でした。
 橋のすぐ南側に天神社があり、「島の天神」として、古くから親しまれています。菅茶山や西山拙斎が遊び頼山陽が詩を読んだことでも有名です。橋を挟んで対岸にはカブトガニの展示場があります。
 島を巡ると南側には神島(こうのしま)神社があり、外浦の港がり、そこから急な坂道を登ると、日光寺があります。その境内の前に万葉長歌の碑があり、そこからの海のロケイションはすばらしいものです。眼下には外浦の港があり、海に突き出た島の岬の向こうに、なんと鞆の浦の島山がくっきりと見えています。
 新羅使の一行が、玉の浦からこの神島(こうのしま)あたりを航海してきたとしても、すぐ前に見える鞆の浦を尻目に、わざわざ福山湾の奥深くの神島(かしま)まで北上して停泊するというのはあまりにも不自然です。やはりここ神島(こうのしま)から鞆の浦に向かったと考えるのが自然だと改めて実感しました。遣新羅使の一行の「神島」はここ「笠岡神島(こうのしま)」に分があると思います。
 左手には高島・北木島などの島々が連なっています。最近の研究で、その島々の南端にある大飛(おおひ)島は都から西に向かう船人たちの祭祀の場所であったことがわかってきました。 またこの島の西にある走島のあたりの備後灘は、東の紀伊水道と西の豊後水道から来る潮がちょうど重なる海域だと聞いています。複雑な潮の流れを読むために、神島と鞆の浦はともに潮待ちの重要な港であったと考えられます。
 遣新羅使の一行は神島(内浦か外浦)に泊まり、まっすぐ鞆の浦に向かったか、あるいは、島々に沿って南下し、島に立寄って航海安全を祈り、西に向かう潮の流れをつかんで一気に鞆の浦に向かったとも考えられます。
 
 ころで、福山駅北側のお城のある山に立つと、西側には芦田川を挟んで北の高増山塊から南の沼隈山塊に続く高い山々が屏風のように連なっています。線路の南側に、ぽつんと小さな小山があります。これが福山の神島(かしま)です。その昔、芦田川の河口付近の海中の島だったそうです。
 菅茶山の「福山誌料」によると、神辺の近くまで海が入り込み、「穴の海」と呼ばれ、流れが急で、舟の航行には大変だったとのこと。万葉時代、備後の国府は府中市にあったと考えられ、国府から鞆の浦に行くには、芦田川を渡り屏風のような山塊を越えて、津之郷あたりの港から舟に乗り、流れの早い神島の岬を廻って、現在の芦田川沿いに簑島を左に見て南下して行ったことでしょう。
 城の山の東側は西側と異なり、蔵王山から南になだらかな山々が連なり、お城のある台地との間に穏やかな湾が広がっていたと考えられます。湾口には箕島が南からの風を防ぎ、おだやかな湾内にはすばらしい漁港がたくさんあったことでしょう。手前に吉津、一番奥が深津、真ん中に都の名を負う奈良津など、今も名が残っています。
 その山々の連なりは「深津島山」と呼ばれ、万葉集に人麻呂歌集出の歌(2423)があります。蔵王山からはじまり、中国中央病院や暁の星学園のある丘からさらに南に伸びて、山陽本線の南の薬師堂を経て、先端は今の王子神社のある丘のあたり。その先の港町公園の一隅にある「蛙岩」が半島の岬の岩礁として波に洗われていたとのことです。深津島山を大蛇に喩え、蛙岩を大蛇に呑み込まれそうになって岩になった大蛙に見立てた伝説が生まれました。それにしても、合同庁舎や寺町のあたりで舟を浮かべて、鯛や鱸を釣っている光景を思い描くと、実に愉快です。
 て、話を神島に返しましょう。福山神島(かしま)の低い小山の頂には神島神社がります。参道入口には万葉歌碑があります。長歌にある「川を渡る」は芦田川、高い山は高増山や沼隈山塊の山波とすると、国府から神島に出るには、歌の状況と類似の場所を通らねばなりません。
 そして「恐(かしこ)きや神の渡り」の潮流の複雑な海に乗り出すのです。この状況は、笠岡の神島には存在しません。しかも題詞に「備後神島」とわざわざ書いてあります。これらの記述をすべてフィクションとすれば別ですが・・・。
 こう考えてみると、長歌の場所は、やはりここ福山の神島(かしま)とする方が自然のように思えてきます。
 たがって、遣新羅使人の歌の神島は「笠岡の神島(こうのしま)」、長歌の神島は「福山の神島(かしま)」、と考えるのが、最も合理性があるように思います。しかし、こういうご当地論争は、明確な証明ができないかぎりいつまでも続いて行きそうです。逆に、だからこそ人々にとって古典が身近になるわけで、そのあいまいさに万葉集が読まれる理由のひとつがあるのかもしれません。
 かし、現代人のご当地争いに関係なく、遣新羅使人の歌も行路死者を悼む調使首の歌も、ともに大自然と真剣に向き合っています。現代の旅と異なり、古代の旅には、いかに生きるか、いかに生かされるかを見つめる座標軸があったのです。

        (「チャーリングのひろば」第16集 06.8.27  掲載)

二つの神島 古代福山の海岸線の想像図
                                                                        
笠岡の神島日光寺前庭から 鞆の浦の島山を臨む 前の港は神島(こうのしま)外港

                                           瀬戸内万葉の旅               牛窓              深津島山  大蛇の頭