瀬戸内万葉の旅

   ここには「瀬戸内万葉の旅」「二つの神島」とその資料があります。
瀬戸内万葉の旅 深津島山 牛窓 室の浦と辛荷の島 家島 二つの神島古代地図


  瀬戸内万葉の旅 
                         川 野 正 博 
             
 
 船で瀬戸内の万葉の故地を旅しました。福山を中心とする同好の人たちと朝曇りのなか、

鞆の浦を出て、玉島・児島・牛窓・室津と廻り、憧れの家島で泊まりました。翌日は、坂出の沙

美島を訪ね、鞆の港に帰りました。短いながらもとてもすばらしい旅でした。
 
 陸路で訪ねることは容易なのですが、万葉当時の瀬戸内の旅は、ほとんどが海の旅です。

手漕ぎの舟で海から港の奥に入り、風待ち潮待ちをしながら旅を続けたのです。そんな旅を


してみたい。これは瀬戸内の万葉に興味のある人なら誰でも抱く願望です。
 
 その願望が一部ですが叶いました。もちろん、船は小さいながらも定期航路用30人乗りの
 
鋼鉄船で、当時の数十倍のスピードがあり、遣唐使船が4〜5日かけた航路を半日で走破し

ます。しかし、海から小さな港に入って碇を下ろし、また次の小さな港に向かうという、万葉人

の気持ちをいささかでも味わうことができたことは、万葉を学ぶ上で大きな収穫でした。 


 鞆の浦を出てすぐに、福山の箕島の奥に深津から蔵王に続くうねった山並みが見えてきま

す。これがあの大蛇に喩えられた深津島山(ふかずしまやま)なのです。陸路を歩いても団地

ばかりが見えて、島という雰囲気はまったくありませんが、海からみると、今でも雲にけぶる山

並みがまさに島山であり、体をくねらせる巨大な大蛇なのです。
 
  笠岡の港を出て高梁川を遡り、玉島港[古の玉の浦]を巡りました。小船ならではの芸当で

す。下津井瀬戸の激しい潮流を乗り切って児島港に入り、引き返して与島で昼食。また長い

児島半島の南側を渡って牛窓に着きました。
 
  牛窓の 波の潮騒 島響
(とよ)み 寄(よ)さえし君に 逢はずかもあらむ

牛窓の瀬戸の潮騒を聴きながら万葉歌碑を訪ね、牛窓伝説のスケールの大きさを実感しな

がら、ひたすら播磨灘を東に向い、御津町室津の港[古の室の浦]に入りました。
 
  いつか雲も晴れ、強い日差しが射しています。まず念願だった藻振鼻(もぶりのはな)にあ

るi犬養孝先生揮毫になる山部赤人の万葉歌碑を訪ねました。流れる汗を拭いもせず黙々と

岬の先端まで登り詰めました。歌碑の前でみんなで、いわゆる「犬養節」を朗詠しました。
 
  玉藻刈る 辛荷(からに)の島に 島廻(しまみ)する 鵜にしもあれや
 
  家思はざらむ
 
 歌碑の向こうには家島諸島が長々と横たわっています。西には唐荷(からに、古の辛荷)の

三つの島が手前から地・中・沖と並んでいます。眼下には激しい播磨灘の浪が白く砕けていま

す。

 かつて廻船で賑わった港を出て、万葉人が憧れたあの家島に向かいました。唐荷の島の間

を抜けて、激しく揺れながらやっと家島に碇を下ろしました。みんな古の万葉人の苦労を改め

て実感しました。
 
  翌朝80%だという雨の確率を心配しつつ、朝曇りの中を家島神社に向かいました。海岸

の鳥居の側に、犬養先生揮毫の歌碑[遣新羅使人帰途時の歌]があります。ちょうど室津の歌

碑と向かい合っているとのこと。ここでもみんなで犬養節の朗詠をしました。
 
  家島は 名にこそありけれ 海原を 吾
(あ)が恋ひ来つる
 
  妹
(いも)もあらなくに


  天神の森と呼ばれる原生林の中の長い石段を登ると家島神社があります。家島諸島は大

小40あまりの島々からなっていますが、中心の家島[本島]以外の島は採石のため大きく削り

取られ、見るも無惨です。万葉人も悲しんでいるに違いありません。
 
 大きなエンジン音を響かせながら激しく船体を揺らせて、小豆島の北側の播磨灘を斜めに

横切りました。ここは牛窓のある邑久(おく)郡の沖合で、古くは大伯の海(おおくのうみ)と呼ば

れました。661年斉明女帝みずから陣頭に立って百済救援の大軍団を率いて西に向かう途

中、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)の皇女がこの海上で生まれ、「大伯皇女(お

おくのひめみこ)」と名付けられました。悲劇のひと大津皇子の実姉です。この軍団は伊予の

港に入り、額田王が「にぎたづに」の歌を詠みました。
 
  やがて坂出の港に入り、この旅最後の楽しみの狭岑の島(さみねのしま、今の沙美島しゃ

みじま)を歩きました。今は番の州とともに埋め立てられて陸続きになり、瀬戸大橋の橋脚下

の公園の一部になってしまいました。しかし、昔は塩飽諸島の一つで、激しい潮流のうずまく

島でした。
 
 人麻呂の乗った船の楫が折れ難破し、やっとこの島にたどり着き、そこに漂流死体を見て、

自分の運命と重ね合わせて歌を詠みました。予報ははずれて、強い陽差しにさらされながら

海辺から人麻呂歌碑を訪ね、山道から古墳をたどりました。
 
  沖つ波 来寄る荒磯
(ありそ)を しきたえの 枕とまきて 寝せる君かも

船は坂出を離れて、燧灘を北にとって、阿伏兎に出ました。沖から見てはじめて、これはやは

り海の観音様なんだと実感しました。
 
  黒雲があやしく覆う中を、鞆の港に帰り、再会を誓いながら別れました。

              (「チャーリングのひろば」第14集掲載  04.8)
                     
 資料研究
1 深津島山  〜大蛇と蛙〜
2  二つの神島    
3 玉の浦と児島
4 牛窓と大伯の海
5 室の浦と辛荷の島
6 家島
7 狭岑の島
8 鞆の浦
                                                                                目次