枕草子 第百二段「二月つごもりころに」
解答と解説【発展的学習 問四】
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【文学史】
問四 枕草子について調べる。
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A成立時期について |
枕草子の伝本のうち、三巻本と能因本の巻末に跋文(ばつぶん)らしき文章があり、
(1)「枕草子」の執筆事情と (2)作品流布の事情が記されている。 それによると、
(1) 中宮の兄の内大臣藤原伊周(これちか)が「草子」を献上。中宮は「これに何を書こうか。」と清少納言に問う。帝の所では「史記」を書いたと聞き、清少納言が「枕にこそは侍らめ」と答えたところ、中宮からその草子を下賜され、それに書いたのが「この草子」だという。
(2) さらに、左中将源経房(つねふさ)が伊勢守だった頃、作者の里を訪問し、作者が「畳」を出したとき、誤ってその上にこの草子が「乗って」出てしまい、経房に持ち去られてしまった。久しくして返ってきたが、それが流布の始まりだったという。
この記事の真偽については、諸説あるが、少なくとも次の事が明らかになる。 (1)「枕草子」の執筆が中宮との関わりで書かれたもので、994〜996年(伊周が内大臣であった)頃、中宮から下賜された「草子」に「枕」を書いたこと。そのことが書名の由来となったらしいこと。 (2)源経房によって、995〜997年(経房が伊勢守であった)頃流布し始め、さらに998〜1001年頃(経房が左中将であった)頃この「跋文」が書かれたこと。 |
B内容の分類について |
一般には次の三つに分類している。
(1)類聚的章段(ものづくしの段)
[1]「・・・は」型の段 [2]「・・・もの」型の段
(2)日記的章段
(3)随想的章段
「枕草子」の内容は成立過程と深く関わっているようである。初めは「枕」が書かれたこと、書かれる途中で世間に流布したことなどである。
一般には、初めに「ものづくし」型の類聚章段が書かれ、続いて日記的章段、最後に随想的章段が書かれたという説が有力である。(池田亀鑑氏説)
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【伝本について】
なお、伝本については、二種類四系統がある。
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雑纂本 (1)三巻本 一類本 二類本 (2)能因本 類纂本 (3)堺 本 (4)前田本 |
※一般的には、上述のように、成立過程
から考えて、初めに類聚的形式のものが書 かれ、流布し、やがて自然に日記・回想的 形式が加わっていったと考えられている。 ただ、清少納言が最終的に完成させたものは、雑纂本の形ではなかったかと言われている。 |
C後世への影響について |
「枕草子」に対する批評は、当初からけっして芳しいものではなかった。 まず、同時代の紫式部が「紫式部日記」の1009(寛弘5)年のいわゆる消息文の中に、次のように書いている。 |
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしらだち、真名書き散らし 清少納言は、たいそう得意顔でいらしゃった人です。 あれほど利口ぶって、 漢字を書き散らして はべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。 おりますようすも、よく見ると、 まだひどく至らない点がたくさんあるます。 かく、人にことならむと思ひこのめるひとは、必ず見劣りし、行末うたてのみはべれば、 このように人より特別に優れようと意識的に振る舞う人は、必ず見劣りし、ゆくゆくは悪くなるばかりですので、 艶になりぬる人は、 いとすごうすずろなるをりも、 風情や情趣を追い求めるのがくせになってしまった人は、まったくさびしくつまらない時でも、 もののあはれにすすみ、 をかしきことも見すぐさぬほどに、 しみじみと感動しているように振る舞い、 興あることも見逃さないようにしているうちに、 おのずから さるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。 自然と、よくない浮薄な態度にもなるのでしょう。 そのあだになりぬる人のはて、 いかでかはよくはべらむ。 そのような浮薄な性格になってしまった人の行く末は、どうしてよいことがありましょう。 ※「艶」=雰囲気・情趣・風情として美をとらえる語。@優美でしっとりと美しいこと。Aなまめかしくあだっぽいこと。 B思わせぶりであること。C(中世以降の歌や能楽の美意識として)華麗で、優雅な美。 ここは、Bの用法。 「あだなる」=形容動詞・ナリ活用・連体形。@実がなく浮ついている。Aはかなく一時的だ。Bむだである。 ここは、@の用法。 冷静な紫式部にしては、珍しいほどの、過酷な批判である。後宮では才媛としてすでに名高かった清少納言に対する挑戦ともとれる。また、これは、「枕草子」という作品に対してではなく、清少納言という人物への批判であり、同時に相入れない対蹠的な個性に対する挑戦と言える。 しかし、この批判が後世にも受け継がれ、特に中世近世の儒教的武士社会においては、機知で男性に対して優位に立つ女性を肯定できなかった。さらに近代になっても、女性の放つユーモアを理解できる学者はすくなかった。とはいえ、「枕草子」が忘れられたわけではなく、いつの時代も常に意識されながら、批判の対象にさらされながらも受け継がれてきたのでる。例えば、 後鳥羽上皇の 「見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋と何おもひけむ」 (見渡すと山の麓が春霞にかすんで、そのを水無瀬川がながれている。そのながめはすばらしく、夕べのながめは秋がよいと、どうして思ったのだろうか。) や 藤原清輔の 「薄霧の籬(まがき)の花の朝じめり秋は夕べとたれかいひけむ」 (薄い霧が漂う垣根に咲いている花の朝じめりのすばらしさよ。秋は夕べがいいと誰が言ったのだろうか。) などは、「秋は夕暮れ」と述べた「枕草子」への対抗意識の歌である。 また、枕草子が書かれて約百年後の1200年ごろ、女性の手によって「無名草子」が書かれた。作者は俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)かとも言われている。その中に、 「すべて、あまりになりぬる人の、そのままにてはべるためし、ありがたきわざにこそあめれ。」 (すべて、あまりに度の過ぎてしまった人が、ずっとそのままの状態でいます例は、めったにないことあるようです。)と前置きして、 「その枕草子こそ、心のほどが見えて、いとをかしうはべれ。さばかりをかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることどもを、残らず書き記したる中に、宮の、めでたく、盛りに、ときめかせたまひしことばかりを、身の毛も立つばかり書き出でて、関白殿失せさせたまひ、内大臣流されたまひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出でぬほどのいみじきこころばせなりけむ」 (その枕草子こそ、清少納言の心の様子がうかがえて、たいそう興味深く思われます。あれほど興味深く、しみじみと趣深く、たいそうすばらしくも、りっぱでもあることを、残らず書き記した中に、宮(中宮定子)の、たいそうすばらしく、栄華の盛りに、天皇からのご寵愛をお受けになられたことなどだけを、恐ろしく身の毛がよだつほどにまざまざと書き出して、父関白(道隆)様が亡くなられ、兄内大臣(伊周)が流されなさったことなどの(中関白家の)衰退を、いささかも言い出さないほどのすばらしい心がけであったようだ) と述べて、作者の心をかなり評価してはいるが、そのような人が晩年遠い田舎に下って、粗末な服装をしながら昔をしのんでいたと記している。晩年の不幸を記すのは、紫式部の影響で、当時そのような伝説が生まれていたのであろう。 そして、方丈記やつれづれ草にも刺激を与え、やがて江戸時代の多種多様の随筆を生み出すことになる。こうして、千年後、個性を尊重する現代、最もそのすばらしさが評価されている。日本文学史上、最も特異な、個性的な作品として、その大きな価値が認められているのである。 |
枕草子年表