枕草子102段「二月つごもり・・・」
語句の解説
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二月(きさらぎ)つごもり=陰暦二月(如月)の末日(つごもりは29日か30日)。
黒戸(くろど)=清涼殿(せいりやうでん)から後宮の弘徽殿(こきでん)に通ずる北の廊下の西側にある黒い板戸。またはその戸のある細長い部屋(黒戸御所)。
主殿司(とのもづかさ)=宮内省主殿寮に属し、帷帳・湯沐・殿庭の掃除や
燈燭を司る役人。職員令には「殿部四十人」とある。
かうてさぶらふ=「かくてさぶらふ」の音便形と考えられる。底本の三巻本には「うちてさぶらふ」とあるが、能因本には「かうしてさぶらふ」とあるので、本文は改めている。
よりたるに=春曙抄に「清少の(使に近)よりたる也」とある。それに従うと「(清少納言が黒戸にいる主殿司の側に)寄って行ったところ」の意味となる。
公任(きんたふ)の宰相殿(さいしやうどの)の=
公任は、藤原公任。関白太政大臣頼忠(よりただ)の子。992年8月参議(宰相)。和歌・漢詩・管弦など多才の人で、当代一のインテリであった。
宰相は、「参議」の唐名。「参議」は国の政治を議する役で、四位以上から選ばれる。現在で言えば閣僚級の重職である。
懐紙(ふところがみ)=「たたうがみ」とも言う。横二つに折り、縦四つに折っ て、懐中に入れて置く。歌を書いたり、鼻をかんだりした。
これが本(もと)=この歌の上の句。上の句を「本」、下の句を「末」という。
「本をつく」とは、下の句に上の句を詠み加えること。後世の連歌や俳諧では一般的に次の句を詠み加えるとき「付く」という。「付け合ひ」「付け句」などの用法がある。
はづかし=心情語(心状語)で、
@元来は、自分が何らかの劣性を意識するときの感情で、その劣性を意識させる対象から逃げ出したい気持ちをいう。動詞「恥づ」(ダ行上二段)の形容詞化した語である。
例:枕草子120段「はづかしきもの」に、「おとこの心のうち」として、
「おとこは、うたて思ふさまならず、もどかしう、心づきなき事などありと見れど、さし向ひたる人をすかし頼むるこそ、いとはづかしけれ。」
(男が、女について、『困ったことに自分の理想通りではなく、非難したい気持ちになり、気にくわない点がある』と思っても、面と向かっているその女性をおだてて、愛されていて頼みにできると思わせるのは、(女として)たいそう気はずかしく感じる。)とあり、女の心を見透かす男に、「気おくれ」を感じている。
A次に、自分の劣性を意識させた対象の、性格の優秀性、すばらしさを感じる気持ちを示す。枕草子102段の「みないとはづかしき中に」がそれである。
御前(おまへ)=敬称。枕草子では、一般に「定子」を指している。枕草子では、
「定子」を指すことばは=「御前」「宮」「宮の御前」が用いられている。
うへ=天皇を指している。枕草子では
「天皇」を指す言葉は=「うへ」「うへの御前」が用いられている。
空寒み=「み」は接尾語で、原因・理由を表す。一般的には「〜ので」「〜さに」と口語訳する。ここでは「空が寒いので」「空の寒さに」。
形容詞語幹 +み(ここは、「空」が主語。「寒し」の語幹「さむ」+み=寒いので)【または、形容詞型活用の助動詞「べし」「ましじ」(『まじ』の上代語)の語幹相当の部分】=「べ+み」「まし+み」
例:「泣きぬべみ」=泣いてしまいそうなので
ことなしびに=「ことなしび」は動詞「ことなしぶ」(バ行上二段)の連用形が名詞化したもの。何でもないようような、通りいっぺんの態度(いい加減な態度)。「に」は格助詞であるが、「ことなしびに」で副詞化していると考えてもよい。
さはれ=感動詞。「さはあれ」の略か。(「さもあれ」の略で、「さばれ」と濁るべきだという説もある)。
決心するときの譲歩・放任的気持ちを表す語である。
@ええ、ままよ。どうにでもなれ。
Aそうではあるが、(それでもかまわない)。
ここは、@の口語訳がよい。
わななくわななく=動詞の終止形を重ねて、「急迫した場面の反復継続」に用いる語法。連用修飾部となる。
一方「わななきつつ」=「連用形+つつ」は、間接的に「余裕のある場面」に用いる(日野資順説・「静岡大人文論集20」)という。
わびし=形容詞シク活用の心情(心状)語で、一般的に「心が痛む」の意味。
「事態が望ましからぬ方向に進んで、もはやそれを打開する可能性はない所にまで立ち至った時の、あきらめ切った消極的な感情。『あぢきなし』よりもよりも一段と閉鎖的で陰性の感情のようである」(渡辺実説「新古典大系枕草子心状語要覧」)
聞かばや=動詞型活用語の未然形+願望の終助詞。
「ばや」の用法には次の四つがあるが、A以下は中世以降の用法で、枕草子ではすべて、@である。
@話し手、思う人自身の願望を表す。「(できたら)・・したいなあ。・・でありたいなあ」の意味。→他に対する願望の「なむ」(未然形+なむ)とはまったく異なる。
A願望というよりも、「む」に近く、「・・しよう」という意向を表す。謡曲に多い。
B「あり」「侍り」に付いて、物事の存在や状態の実現を望む気持ちを表す。「あらばや」「侍らばや」の形で、「・・があってほしい」「・・してほしいなあ」の意味。
C多く「あらばや」の形で、「・・どころかまったくそうではない」という打消しの意味を表す。
聞かじ=動詞型活用語の未然形+否定的な終助詞。
@打消推量。「・・・しないだろう」「・・・するわけにはいかないだろう」
A打消意志。「・・・したくない」「・・・しないつもりだ」
ここは、Aの用法。「聞きたくない」「聞かないつもりだ」
内侍(ないし)=内侍の司の女官の中で、ここは特に「掌侍(ないしのじやう)」を指す。
「内侍の司(ないしのつかさ)」は内侍所(ないしどころ。「賢所(かしこどころ)」ともいう)に奉仕する女官のことで、天皇への取り次ぎや宮中の礼式などを司る。
その長官を@尚侍(ないしのかみ/しやうし)、次官をA典侍(ないしのかみ/てんじ)、三等官をB 掌侍(ないしのじやう/しやうじ)と呼ぶ。
清少納言は中宮付きの私的な女房に過ぎないので、公(おおやけ)の女官に推薦しようということになったらしい。結果的にはそうならなかったが。
左兵衛督(さひやうゑのかみ)=左兵衛府の長官。左兵衛府は、「六衛府(りくゑふ)」の一つで、宮中の警護や行幸の警備などを司る役所。
中将(ちゆうじやう)=近衛府の次官。左近衛府中将(左近中将)と右近衛府中将(右近中将)がいた。「近衛府(このゑふ)」は、「六衛府(りくゑふ)」の一つで、宮中の警護や行幸の警備などを司る役所。令外の官(りやうげのくわん)である。
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不審な語句について |
この段の語句には不審な点が多い。いくつか挙げてみよう。 |
不審その1 二月(きさらぎ)つごもり
=いつの年の二月末なのか、諸説あるが次の三説が有力である。 @長徳二年(996)説
A長保元年(999)説【金子・池田説】
B長保二年(1000)説
【文献からの考察】
A)登場人物の経歴から
公任(きんたふ)が宰相(参議)で、俊賢(としかた)が宰相(参議)であったのは、992〜1001年で、これは三説とも該当する。「左兵衛督の中将におはせし」人物が固定できれば、重要な決め手になるが、文献からは、該当する人物はいない。
B)中宮の出仕から
中宮定子が2月末に清涼殿の上の御局(うえのみつぼね)に出仕したのは、
@996年と A999年である。
【暦表からの考察】
C)春が遅いことから
長徳二(996)2月つごもり(小の月で29日)→太陽暦では3月27日
長保元(999)2月つごもり(小の月で29日)→太陽暦では3月24日
長保二(1000)2月つごもり(小の月で29日)→太陽暦では4月12日
太陽暦に換算してみると、最も春が遅かったのは長保元年(999)年ということになる。しかし、可能性は高いがこれだけでは判断できない。
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不審その2 公任の宰相殿の
=多くの写本は「公任の君、宰相中将殿の」(宰相は参議の唐名)とある。しかし、公任は宰相(参議の唐名)で中将(近衛府次官)を兼ねていたことはない。 そこで、関根正直氏説(「枕草子集註】昭和6)に従い「公任の宰相殿の」と改めたテキストが多い。正暦三(992)年8月参議(宰相)になった。この時中将をやめ、長保三(1001)年中納言、寛弘六(1009)年権大納言、長久に(1041)正月元日没(76歳)。
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不審その3 俊賢の宰相
=「俊賢の中将」「俊賢の宰相中将」とある写本もある。
源俊賢が中将になったのは、長保三年(1001)で、定子皇后が崩御後となるので、話が合わなくなる。三巻本の「俊賢の宰相」がよいと考えられている。
俊賢は長徳元(995)に宰相(参議)になった。
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不審その4 左兵衛督の中将におはせし
=三巻本は「左兵衛督」で、「右兵衛佐」となっている写本もある。しかし、この話に該当する人物はいない。寛弘六年(1009)まで時代を下げると「藤原実成」がいるが、枕草子の成立年代に関る問題となってくるので軽々には断定できない。 |