枕草子 第百二段「二月つごもりころに」 |
解答と解説【発展的学習 問四】 |
【文学史】
問四 枕草子について調べる
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@作者について |
「枕草子」の作者が「清少納言」であることは、伝本に「清少納言枕草子」と書名に「清少納言」を冠しているものが多いことからも明らかである。逆に、古い伝本に単に「枕草子」と題しているものがほとんどないので、もともと題名が何であったかは不明である。単に「枕草子」と呼ばれるようになったのは、「無名草子」や「つれづれ草」など、中世からであろう。 |
清少納言の家系は次のように考えられている。 |
清原家は歌の家柄。父元輔(もとすけ)も有名な歌人で、勅撰集第二の後撰集を撰進した梨壺(なしつぼ)の五人の一人であった。 清少納言は父が50代後半の時の子供で、母については不詳。16歳頃橘則光と結婚し翌年則長が生まれたが、まもなく離婚したらしい。やがて、藤原棟世と結婚したらしく、女子が生まれた。この女子は後に上東門院彰子の女房となり小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれた。
父の死の3年後、作者28歳頃、約10歳年下17歳の中宮定子のもとに女房として出仕。そこで中の関白家の絶頂期とその衰退を目の当たりに見てきた。この宮仕え中に枕草子を書いた。しかし、枕草子には、中の関白家衰退の様子はまったく書かかれていない。 定子が24歳で崩御後まもなく宮仕えを辞去し(36歳頃)、地方に下ったらしい。伝説はいろいろあるが真実は不詳。晩年は京の近くで暮らしていたらしい。
御堂関白家藤原道長の全盛期、清少納言50歳頃、兄が次々と死んだ、戒秀が逝き、翌年致信が殺害された。作者は60歳頃亡くなったと考えられるが、その前後兄為成もこの世を去った。
枕草子年表(工事中) |