|
向井去来の「去来抄」の中に次のような話が出ています。 行く春を近江の人とをしみけり 芭蕉 芭蕉先生がおっしゃるには「弟子の尚白がこの句を批判し、『近江』は『丹波』にも、『行く春』は『行く歳』にも置き換えることができると言ったが、お前はどう思うか」と。去来は「その批判は当たりません。近江は、琵琶湖の朦朧と霞む春の景色を惜しむにはふさわしい土地であり、実感を表しています。」といった。すると、芭蕉は「そのとおり。昔の人もこの近江で春を惜しみ歌を詠んできた。その気持ちは決して都の春を惜しむ気持ちに劣ることはない。」とおっしゃった云々。 去来はその地の実景実感を重んじています。芭蕉はさらに加えて、文学的なあるいは歴史的な情趣があると、他に置き換えることのできない絶対的な価値が備わることを述べているのです。 確かに何の変哲もない小川や池や里山も、その地にまつわる伝説が生まれ、歌が詠まれ、歴史的な事件が展開するとき、他に置換できない特別な地になっていきます。 万葉集の巻第十一(国歌大観番号2423)に恋の歌があります。 道の後(しり) 深津嶋山(ふかづしまやま) しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり (備後の国の 深津島山の「しま」ではないが、 しましく〈しばらく〉でもあなたに逢わないと苦しいのです) 福山城の天守閣から東を臨むと、左手に市街地の北側をさえぎるような山なみがあります。その最も高い山が蔵王山(標高276m)です。その裾野から右に向かってなだらかな丘が続き、JR山陽線を越えた辺りの樹木の茂る小山で終わっています。その小山は王子山と呼びます。 万葉の時代には今の福山の市街地は一面海で、蔵王山から王子山に伸びるなだらかな山々は、半島としてくねくねと海にむかって突き出していました。その山々には木々が繁り、山かげのおだやかな入江には吉津・奈良津・深津などの漁村が点在していました。一番南の深津は東西に開けた港を持ち、笠岡の神島(こうのしま)の港から鞆の港へ向かう舟の中継地になっていたことでしょう。海に浮かぶ島々のように見えるこの緑の半島は「深津島山」と呼ばれ、舟人の目印として親しまれていたに違いありません。 万葉集の歌の「道の後 深津島山」は「しましく」の「しま」を導き出すための序詞です。それでは「安藝の国 瀬戸の島山」に置き換えても同じかというと、そうはいきません。「道の後」は「吉備のうちの後の国」の意味ですが、「後」には都から遠いの意味があり、「道の後」には都から遠く離れてやって来た意味が加わります。また深津島山の低くうねうね続く山なみには、恋しさがうつうつと続く思いと重なります。この歌の序詞には実感を支える実景があるのです。 そして、この歌が詠まれたことによって、「深津島山」には特別な情趣が加わったのです。現在は海が街になり山々は切り崩されて学校や住宅街に開発されても、「深津島山」として眺める時は、緑の山かげに囲まれたの漁村の優しい娘心や、都から遠く離れて行く舟人の綿々としたせつない思いが付加されてくるのです。 さらに深津島山には伝説が加わります。 一匹の年を経た大蛙がいた。ある時大蛇がやって来て、その大蛙を呑もうとた。大蛙は逃げ回ったけれど追い詰められて、大蛇の大きな口が迫ったとき、その恐ろしさに凝り固まって、なんと大きな岩になってしまった。大蛇はその岩になった大蛙をくわえて呑み込もうとしたが、とても呑み込むことができず、大いに落胆し、とうとう大蛇もこの場所に死んでしまった。 その大蛇の頭は王子山にあり、尾は市村山の裾にあった。そして岩になった大蛙は、西の浜の沖の田の中にある蛙岩である。 (江戸時代の馬屋原呂平の1804年の「西備名区」所収) 市村の山は蔵王山のことで、うねうねと海に向かって続く深津の半島を大蛇の姿に連想したのでしょう。王子山にはいま王子神社が鎮座していて、産土(うぶすな)の神として人々守られています。蛙岩は岩礁となり舟人をさんざん苦しめたのち、今は港町公園の一画で小さな祠を従えて鎮座しています。 さらにこの大蛇は近世初頭の歴史に頭をもたげて登場します。この王子山に山城が築かれました。毛利元就の七男の毛利元康。彼は天正十九(1591)年出雲富田城から2万3千余石の備後神辺城主になり、慶長三(1598)年海に臨んだこの深津王子山に城を移しました。伝説の大蛇の頭の地は、まさに備後一国の中心となったのです。しかし、毛利氏は翌年の関ヶ原で敗れ、一族は長州へと移っていきました。そんな短命の城の運命をたどったのも、大蛇の伝説と重なります。 時は下って水野勝成が、王子山と向かい合いやはり海に突き出した山に城を築き、福山城と名付けました。水野氏は深津島山の周囲の海を次々と埋め立て、新田開発に没頭しました。特に王子山から東へ引野の梶嶋山まで、延々とのびる潮止めの大堤防工事は、難事業だったに違いありません。正保四(1647)年についに完成し、千間土手と呼ばれました。それは長大な大蛇を想像させたことでしょう。そして深津島山は海から離され、完全に丘になってしまいました。今国道2号線が、千間土手の代わりに長々と延びて横たわっています。 このように、どんなに乾燥した街でも単調な里山でも、そこには伝説や歴史があります。それは他の土地には置き換えられない貴重な情趣に彩られています。私は旅をするとき、その地の歴史をしっかり調べます。そうすると、眼前の景のうしろにより大きな奥深い情景が見えてきます。そのときに受ける情趣を大切にしたいと思います。 私の家は古い街道に面しています。歩道の区別もない狭い道をひっきりなしに自動車が通ります。その騒音と排気ガスで悩まされ続けていますが、この道をかつては伴揃えを従えた大名が通り、城下へ急ぐ商人や他国へ旅立つ鳥追い姿の女性が歩いたのだ、そして明治になって日本最初のバスがこの前を走ったのだと想像すると、その光景が浮かんできて、思わず窓を開けて深い情趣に浸ります。途端に妻が窓をぴたりと閉めてエアコンを入れますが・・・。 (「チャーリングのひろば」第20集/2010.8.27刊 掲載 川野正博 著) |