芦屋の菟原処女うなひをとめ伝説 |
@ 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の歌 万葉集巻第九1809〜1811
「菟原処女(うなひをとめ)の墓を見る歌一首 併せて短歌」
A 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌 万葉集巻第九1801〜1804
「芦屋処女(あしやのをとめ)の墓を過ぐる時に作る歌一首 併せて短歌」
(菟原処女は芦屋処女とも呼ばれた)
B 大伴家持(おおとものやかもち)の歌 万葉集巻第十九4211・4212
「追ひて処女(をとめ)の墓の歌に同(こた)ふる一首 併せて短歌」
万葉集を典拠として後代に脚色されていく。 C 大和物語 百四十七段
「すみわびぬ我が身投げてむ津の国の
生田(いくた)の川は名のみなりけり」 の歌で知られている。
D 謡曲 「求塚(もとめづか)」(観阿弥または世阿弥作)
E 戯曲 「生田川」 森鴎外作
|
@ 高橋虫麻呂の歌
1809 菟原処女うなひをとめが墓を見る歌一首 高橋虫麻呂
葦原の 菟原処女の 八歳子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び
居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほ
なす 人の問ふ時 千沼壮士 菟原壮士の 廬屋焼き すすし競ひ 相よばひ し
ける時には 焼き太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火
にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく 倭文たまき 賤
しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ
黄泉に待つたむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮
士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ
叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 掛け佩
きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行ければ 親族どち い行き集まり 永
き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓
このもかのもに 造り置ける故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 音泣きつる
かも
1810 反歌
芦屋の 菟原処女の 奥津城(おくつき)を
往(ゆ)き来(く)と見れば 哭(ね)のみし泣かゆ (芦屋の菟原処女の墓を、行き来するにつけて見ると、泣けてくることよ。)
1811 反歌
墓の上の 木の枝(え)靡(なび)けり 聞きしごと
血沼壮士(ちぬをとこ)にし 寄りにけらしも
(はかの上の木の枝が、血沼壮士の墓の方に靡いているよ。やはり伝え聞いたよう
に血沼壮士の方に心を寄せていたらしいなあ。)
A 田辺福麻呂の歌
1802 反歌
いにしへの 小竹田壮士(しのだをとこ)の 妻問(つまど)ひし
菟原処女の 奥津城(おくつき)ぞこれ
(昔の小竹田壮士血沼壮士が求婚した菟原処女の墓だよこれは。)
1803 反歌
語り継ぐ からにもここだ 恋しきを
ただ目に見けむ いにしへ壮士(をとこ) (この物語を語り継ぐだけでも、こんなにたいそう恋しいのに、直接菟原処女を見
たという昔の男は どんな気持ちがしたであう。)
B 大伴家持の歌
4211 追ひて処女の墓の歌に同ふる一首
古(いにしへ)に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 千沼壮士
菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて
争ひに 妻問ひしける 処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて
秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛りすら
ますらをの 言いたはしみ 父母に 申し別れて 家離(さか)り
海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に なびく玉藻の 節の間も
惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥つ城を ここと定めて 後の世の
聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと 黄楊小櫛然刺しけらし
生ひてなびけり
4212 反歌
処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛
生ひ代はり生ひて なびきけらしも (おとめ達の後のしるしにと、黄楊の小櫛が木となって生え代わり、枝を伸ばした
のであろう)
右は、五月六日に、興に依りて大伴宿禰家持作る
|
万葉集を典拠として後代に脚色されていく
菟原処女うなひをとめ伝説 と 生田川いくたがは伝説 C 大和物語一四七段 「生田川物語」
[三部構成]
第一部 一人の女をめぐり、二人の男が求婚し、女はいずれとも去就を決し得
ず、思い悩んだ末、
すみわびぬ わが身投げてむ
津の国の 生田(いくた)の川は 名のみなりけり
という歌を詠み、生田川に身を投げて死に、二人の男もその後を追ったという話
を伝え、現在もあるという三つの墓の由来を述べる。
※ 話の筋は、ほぼ万葉集の菟原処女伝説と同じである。
ただし、つぎの点が大きく異なっている。
(1)舞台が生田川となり、女の歌が挿入されている。 (2)女の親が、男たちに難題を出し、婿選びをしようとする。 (3)3人の死後、男たちの親が登場し、墓を造ることにつての争いが起こる。
第二部 宇多天皇皇后の温子のサロンの女性たちが生田川伝説を描いた絵を見な
がら、伝説の登場人物に代わって十首の歌を詠み合った。
第三部 塚に葬られた男たちの死後の血なまぐさい闘争とその決着についての、
旅人の話を語る。
D 謡曲 「求塚(もとめづか)」(観阿弥か世阿弥作) 四番目修羅能
西国の僧が、都に上る途中、海路生田の里に着き、「求塚」を捜すうち、一人の
里女が塚に案内し、生田川伝説を語る。
二人に求婚された女は、
住みわびつ わが身捨ててん
津の国の 生田の川は 名のみなりけり
と詠み、川に身を投げたので、里人がこの塚の中に埋めた。そして、二人の男も、
刺し違えて死んでしまったという。
「そのことさえ自分の罪になっている。我が身を助けたまえ。」と言って、案内
した里女が塚の中に入っていった。
その夜、僧の前に女の亡霊が現れ、地獄に堕ちた女の、苦しみ悶える姿が示され
る。やがて、求塚にたどりついて亡霊は、こうして永遠に苦しみ続けなければなら
ないことを語る。
|