三  つ  墓  物  語
 
 
葉集の芦屋処女(あしやおとめ)のお話の通り、現在も灘区の阪神電車沿いに三つの墓があります。しかも、三つとも立派な前方後円墳であったようです。
  ところが、なんとその築造年代はすべて異なっています。これはどういうことなのでしょうか。  
                                                                                       
えてみると、4世紀頃、全長70〜100mの大きな前方後円墳を造ることができるのは、やはり権力のある、土地の豪族としか考えられません。お話の中の3人のお墓とすると大きすぎますね。
  前の図を見てください。三つの墓は当時海岸線に沿って築かれていまいした。舟で通る人たちにとっては、その三つの大きな墓が、何かいわれありそうに思えたに違いありません。
  やがて7世紀〜8世紀の万葉時代になると、あの墓が誰のものであったかわからなくなっていたのではないでしょうか。さらに当時は、都から太宰府、さらには唐や百済や新羅へと多くの人たちが舟でこの沖を通うようになりました。そこで伝説と結びつきます。あるいは、この墓を眺める舟人たちから伝説が生まれたのかもしれません。伝説が先か、お墓が先かはわかりかせんが、もう切り離せないものになっていったと思われます。さらに、お墓の西の端に敏馬(みぬめ)神があり、旅の安全を祈って立ち寄ったために、ますますこの伝説は広がって行きました。
  ところが、山陽道の陸路が整備される平安時代になると、大きな集落のある生田川周辺に宿場が置かれ、伝説の舞台も西に移行していったと考えられます。大和物語の生田川伝説はこうして生まれていったのでしょう

          

敏馬神社の修復完了