その6    友  情
                 
 アフリカ沖のインド洋で客船が沈没し、船長が乗客よりも先に船を捨てて逃げていたというニュースは、驚きとともに、心に寒さを走らせた。海の男のモラルが問われている。
代の対馬(つしま)は、対外貿易の中継基地として重要であった。時の政府は、年に一度、秋の収穫後に九州本土から食糧を送るよう命じていた。玄界灘を輸送する船団の人数は百数十人。その水先(みずさき)を務める船頭の腕には責任がかかる。
 その年、太宰府は、経験のある筑前の津麻呂(つまろ)を船頭に任命した。しかし、年老いて気力のなくなっていた津麻呂は、友で年若い漁師、志賀島(しかのしま)の荒雄(あらお)に頼んだ。義侠心が強く、友情に厚い荒雄は、同じ海に生きる男として、進んで頼みを引き受けた。
く塗った官船に乗り込んだ彼は、意気揚々として博多の港・娜(な)の大津を船出していった。八世紀中葉のことである。
 防人の守る平らな残島(のこのしま)の也良(やら)の崎を過ぎると、正面に我が家のある志賀島の松の緑が迫って来る。妻や子が待っている。長くはかからないだろう、海の流れさえ掴めば。
 自信はある。油を流したような湾を取り舵(かじ)し、韓亭
(からどまり)を抜けると、急に海上に白い馬の背が走る。いよいよ玄界灘だ。晩秋から初冬にかけての北西の季節風の荒々しさは、充分に承知していたが、鳥も通わぬ玄界灘を対馬海峡に差し掛かる頃には、海は暴風雨を呼んでいた。対馬を目前にして、さすがの官船も木の葉のように弄(もてあそ)ばれ、やがて積み荷もろとも海底に消えた。
雄遭難の報は、志賀島の妻子を悲しませるに充分だった。たとえ海の男の友情からとは言え、役所の命令でもないのに出かけていった荒雄に対し、妻は詰問した。なぜ引き受けたの。なぜあなたでなければならなかったの。これからどうして生きたらいいの。そして、波間に沈みゆく夫の姿を想像し泣いた。ついで、諦めようと努めた。やがて、どこかで生きていて、いつか元気に帰って来ると思うようになった。妻は毎日陰膳(かげぜん)を据えて待ち続けるのだった。
時、筑前守(ちくぜんのかみ)であった憶良は、この妻の心に打たれ、「筑前の国の志賀の白水郎の歌」として十首に整理して残した。白水郎とは「あま」と読み、漁師のことである。
 
○ (つかさ)こそ さしてもやらめ さかしらに
     行きし荒雄ら 波に袖ふる
役所の命令で派遣されたのではなく、自分から進んで出ていった荒雄が、波間に漂って袖を振っているよ。
 
○ 沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 
       也良の崎守 早く告げこそ
  残島(のこのしま)の也良(やら)の崎の防人(さきもり)よ、
鴨丸(かもまる)という船が帰って来たなら、すぐに知らせておくれ。(それは夫の乗った官船だから)
 
○ 荒雄らを 来(こ)むか来(こ)じかと 飯(いひ)盛りて
       (かど)に出で立ち 待てど来(き)まさず
荒雄が帰って来るか来ないかと、陰膳据えて、門に出て立って待つけれど、いらっしゃらない。
 
 金印の出土した志賀島は、観光の波で洗われているが、北の岬に立つと、沖の玄界島から寄せる荒波が眼下に砕け、藤壺の付着した船板が今日も流れ着くのである。
  
 (一九九二年二月十日「桐一葉」第十二号より)