万葉の悲劇 その十二 |
巻向(まきむく)の女 |
藤原の都は、大和三山の真ん中に位置し、碁盤の目のように整然とした都でした。人麻呂は役所の勤めを終えると、毎夜、黒い馬に乗って人知れず都を抜け出します。
香具山の北に延びる中つ道を通って、耳成山の麓で右に折れ、横大路に出ると馬に鞭が入ります。左折して上つ道をとると、三輪山の円錐が黒く大きくのしかかるように迫ってきます。初瀬川を裾が濡れないように渡り、右手に三輪の神杉のシルエットが見える頃には、行く手を箸墓の巨大な前方後円墳が遮ります。右手の山の辺(やまのべ)の道に向かって登ると、瀬音が大きく聞こえてきます。穴師川(あなしがわ)です。 この山峡の村里に愛する妻がいるのです。 遠くありて 雲居(くもゐ)に見ゆる 妹(いも)が家(いへ)に 早く至らむ 歩め黒駒 初瀬川 夕(ゆふ)渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
家の金門(かなと)に 近づきにけり (初瀬川を夕方渡って来て、愛妻の家の門にいよいよ近づいて来たよ) 彼は目覚めると、まず東に聳える巻向の山々を眺めます。主峯は弓月が岳で、雲を戴いて右奥に見えます。左には引き手の山が、広げた鳥の羽のように横たわっています。瀬の音が耳元に響きます。
あしひきの 山川(やまがは)の瀬の 鳴るなべに
弓月が岳(ゆづきがたけ)に 雲立ち渡る 巻向(まきむく)の 穴師(あなし)の川ゆ 行く水の
絶ゆることなく またかへり見む (巻向の穴師川を流れる水のように、絶えることなくまた来て見よう) 政務に忙しい彼の心を癒すのは、妻でした。しっかり者で優しく、頼りになる妻でした。彼は彼女を愛するがゆえに、彼女を育てたこの巻向の風土を愛しました。山も川も、樹木を渡る風も鳥の声や岩を噛む水の音も、すべてが心の憂さを洗い流してくれるものでした。 春には、家の前の堤の槻(けやき)の、萌える若葉の下で語り合い、秋には、月の光に照らされながら、共に静かに山の辺(べ)の道を歩みました。 やがて、二人の愛の証として、男の子が生まれました。 その喜びも束の間、女は産後の体調が悪く、数か月の後、雲の彼方に旅立ったのでした。男は、残されたみどり児を抱え、寝室に閉じ籠もり、嘆き明かしました。みどり児は乳をほしがって泣きますが、なすすべもありません。 亡き骸は、北の衾道の引き手の山の麓で、火葬にしました。そこにお墓もつくりました。 衾道を 引き手の山に 妹を置きて
山路をゆけば 生けりとも無し (衾道よ、引手の山に妻を置き山路を帰ると生きている気がしない)
恋い慕い嘆いていると、この巻向から引き手の山々を羽易(はがい)の山と呼び、大鳥が羽を広げ、魂が住む所だと、教えてくれる人がいました。藁をも掴む思いで、岩を押し分けながら山の中を歩き回りましたが、妻の面影はほのかにも見えません。世の無常が心を覆います。
児らが手を 巻向山は 常にあれど
過ぎにし人に 行(ゆ)き巻かめやも (妻の手を巻くという巻向山はいつもあるが、亡くなった人に手枕をさせてやれようか)
巻向の 山辺とよみて ゆく水の
水泡(みなあわ)のごとし 世の人われは (巻向の 山辺に響き渡り 流れ行く 水の泡のようにはかない。この世の人であるわれわれは)
山の辺(やまのべ)の道を巻向の川にたどると、水は今も万葉の無常をふつふつと流して、岩を深く深く削り続けているのです。
(万葉集 巻二・210〜216、巻七・1087・1088・1100・1101・1118・1119・1268・1269・1271、巻九・1775)
(一九九六年十月二十五日「桐一葉」第二十一号より) |