真間の手児奈(手児名)の歌 |
巻第三 山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)
@ 勝鹿(かづしか・葛飾)の真間の娘子(をとめ)が墓に過(よぎ)る時に、山部宿禰赤人が作る歌一首 并(あは)せて短歌 東(あづま)の俗語(くにひとのことば)に云ふ、か づしかのままのてご 431
古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯(おび)解き交(か)へて 廬屋(ふせや)立て 妻問(つまど)ひしけむ 葛飾(かづしか)の 真間(まま)の手児名(てごな)が 奥つきを こことは聞けど 真木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠くひさしき 言(こと)のみも 名のみも吾(われ)は 忘(わす)らゆましじ
むかしに いたという男たちが 和製の伝統模様の織物の 帯を解き交わし 小屋を建てて 求婚したとかいう 葛飾の 真間の手児名の 墓所は ここだと聞くが 真木の葉が 茂ってるせいだろうか 松の根が 年久しく延びた(ようにときが永く経った)からであろうか(その墓は見当たらないが)話だけでも 名前もわたしは 忘れられないことであろう
「帯解き交へて」は、一般には男女が交わることを言うが、それではここでは矛盾する。むしろ、男が一方的に「解き替える」意味で、「妻を替える」こと、「離婚する」ことを指しているのではないか。妻と離婚し家を出て、小さな家を建ててまでして手児奈に求婚したのであろう。 反歌(はんか) 432
吾(われ)も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処(おくつきどころ)
わたしも見た 人にも話そう 葛飾の 真間の手児名の 墓所を。
433
葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思はゆ
葛飾の 真間の入り江で 波に揺れる 玉のように美しい藻(わかめ)を刈ったという 手児奈のことがしたわしく思われる。
☆山部赤人は、駿河の「富士山」を詠んだときの旅で、下総にもやって来たのであろう。年代も目的も不明である。手児奈の墓と伝えられる所はあったが、すでに木々が茂り荒れていて、わからなかったようである。
巻第九 【高橋連虫麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の歌集より】
A葛飾の真間の娘子(をとめ)を詠む歌一首 并(あは)せて短歌 1807
鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 古(いにしへ)に ありけることと今までに 絶えず言ひける 葛飾の 真間の手児奈(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿(あをくび)着け ひたさ麻(を)を 裳(も)には織り着て 髪だにも 掻(か)きは梳(けづ)らず 沓(くつ)をだに はかず行(ゆ)けども 錦綾(にしきあや)の 中に包める 斎(いは)ひ児(ご)も 妹(いも)に及(し)かめや 望月(もちづき)の 足(た)れる面(おも)わに 花のごと 笑(え)み立てれば 夏の虫の 火に入(い)るがごと 湊(みなと)入(い)りに 船漕(こ)ぐごとく 行(ゆ)きがくれ 人の言ふ時 いくばくも 生(い)けらぬものを なにすとか 身をたな知りて 波の音の 騒(さわ)く湊の 奥津城(おくつき)に 妹(いも)が臥(こ)やせる 遠き代(よ)に ありけることを 昨日(きのふ)しも 見けむがごとも 思(おも)ほゆるかも
(鶏がなく)東の国に むかしに あった事実として 今日まで 絶えず言い伝えてきた 葛飾の 真間の手児奈が 麻(あさ)の服に 青い襟(えり)を付け 純粋な麻を 裳(も:腰から下にまとったスカート)に織って着て 髪さえも梳(くしけず)らず 沓(くつ)をさえ 履(は)かないで 歩いて行くけれども 錦(にしき)や綾(あや)の織物の 中にくるんだ 箱入娘(はこいりむすめ)も この娘(こ)に及ぼうか 満月のように 真ん丸い顔で 花のように ほほえんで立っていると 夏の虫が 火に飛び込むように 港に入ろうと 船を急いで漕ぐように 寄り集まり 男たちが求婚する時 人はどれほども生きられないのに 何のために 我が身を思い詰めて 波の音が 騒がしい港の 墓所に この娘は横たわっているのだろうか 遠いむかしに あったできごとだが ちょうど昨日(きのう) 実際に見たかのように 思われることだ
反歌
1808
葛飾(かづしか)の 真間の井(ゐ)を見れば 立ち平(な)らし 水汲(く)ましけむ 手児名し思ほゆ
葛飾の 真間の井戸を見ると 踏み固め平(たいら)になるまで 水を汲んだという 手児名が偲(しの)ばれる
☆まさに伝説歌人の面目躍如である。菟原処女(うないおとめ)伝説と同様、伝説の中に身を置き、悲劇のヒロインを親しく「妹(いも)」と呼びかけるのである。
なお、「手児奈(名)」は、神に仕える巫女であったとする説が有力である。だから命を絶たなければならなかったのか。赤人は東国の人は「てご」と呼んだと記している。「てご」は娘(むすめ)の意味。「な」は、愛称の接尾語で親しみをこめたもの。もとは普通名詞であるが、ここでは固有名詞として用いられている。
巻第十四 東歌四首
B東歌(あづまうた):下総国(しもつふさのくに)の相聞往来歌(さうもんわうらいか) 四首
3384
葛飾(かづしか)の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を
葛飾の 真間の手児奈と ほんとうかなあ わたしと訳ありげに言っているそうだよ あの真間の手児奈とさ
伝説上の美人と自分とが恋仲だという、そんなうわさを聞き、喜んでいる。 3385 葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに
葛飾の 真間の手児奈が まだいた時は 真間の磯に 波がとどろくように人々がうわさし騒いだものさ
3386
にほ鳥(どり)の 葛飾早稲(かづしかわせ)を にへすとも そのかなしきを 外(と)に立てめやも
(にほ鳥の)葛飾で収穫した新穀のお初穂を 神に供える新嘗(にいなめ)の晩であっても あのいとしい人を 外に立たせたままでおけようか
元来、神を祭る者は未婚の女性で、新嘗の夜は各家とも神を迎える娘だけを残し、家族は戸外で夜を明かす習俗があったという。しかし、ここにはその神聖な夜でも恋人を戸外で待たせないという女の奔放さがある。「にほ鳥」はカイツブリのことで、よく水に「潜く(かづく)=もぐる」ことから、「かづしか」)の枕詞になった。 3387
足(あ)の音せず 行(ゆ)かむ駒(こま)もが 葛飾の 真間の継ぎ橋 やまず通(かよ)はむ
足音もしないで 行く馬がほしいなあ そうしたら葛飾の真間の継ぎ橋を渡って (手児奈のもとに)絶えずかよっていこう
「継ぎ橋」は、川幅の広い場所に橋脚をいくつか立てて、その上に板を継ぎ渡したもの。真間には現在、「継ぎ橋」という小橋がある。 ☆以上東歌の四首は、手児奈伝説の聞き手の気持ち(感動)を述べたものであろう。当然、民謡として、労働の場や宴の席で歌われたものであろう。
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葛飾と真間について |
「葛飾」は、現在千葉県と東京都にまたがっているが、奈良平安時代はすべて「下総国(しもふさのくに)葛飾郡(かづしかのこおり)」に属していた。「伊勢物語」の東下り(あづまくだり)にあるように、隅田川が国境(くにざかい)であった。「寅さん」の生まれは下総葛飾柴又というところであった。
ただし、当時は利根川が、隅田川・荒川・江戸川に流れ込んでいて、しかも海が深く入り込んみ、柴又も「嶋俣」と書き、海のそばであったらしい。現在の京成本線がほぼ海岸線であったと考えられている。【→次ページの地図を参照】 水が豊富なため、水田が発達していたと思われる。
「真間」は、葛飾郡の東部で、すぐ北側に下総の国府があった。現在「国府台(こうのだい)」と呼ばれている高台である。その台地が南に傾斜して海に落ち込む所が「真間」であった。国府の人や荷を運ぶ重要な港であったと考えられる。
隅田川・荒川・江戸川の三つの河川は関東平野の水を一手に受けて、毎年濁流となって洪水を起こし、大量の土砂を東京湾に流し、海岸線は南に下がっていった。川の位置も常に変化したに違いない。ご承知のように、利根川の改修で太平洋に水を流すようになったのは江戸時代である。
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