第四章 「こころ」の学習をどう進めるか |
第一節 「こころ」を読ませる意義 |
@「小説学習指導の目標」や「漱石文学の世界」で述べたように、「こころ」は近代長編小説の典型的作品として位置付けることができる。
Aさらに、高校生の感想文には、「こころ」を読んで、友情・恋愛・人生などについて真剣に考えるようになったというものが多い。高校生が、「友情」「恋愛」「人生」などの問題を考察し、討議することは、年齢的に重要であるにもかかわらず、抽象的に一般化すると、深まりがなく、話し合いが上滑りしがちである。その意味で「こころ」の文学的体験は、貴重なものとなろう。
Bそして、遺書という、死に向かう一生取り返しのつかない人間の全重量を、「心臓を破った血を顔に浴びる」思いで読む時、高校生の胸に「新しい命」が宿ることを、期待できる。
Cその意味でも、長編の一部であることを意識させつつ、長編小説の意義とそれを読み通す大切さを学ばせたいものである。
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第二節 学習の展開例 |
一、 導 入
導入として、まず次の説明する。
@ 「こころ」が、上(先生と私)・中(両親と私)・下(先生と私)から構成されていること。
A 教材採録部分は、下(先生と私)の 第三十八(または三十九)章〜第四十八(または四十九)章の部分で、「先生」の遺書であること。
B 下のうち、教材採録部分までのあらすじ。 「私」(先生)の家庭、叔父との財産問題、故郷との決別、下宿の様子、お嬢さんへの宗教的愛、Kの困窮、Kの同居
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二、 心理の流れを中心としてとらえる学習
@ 事実(出来事) A 「私」の心理 B Kの心理 を自由に図表化させる。グループに分けて検討し、発表させるのもよい。 (→資料3) この方法は、自律的学習を進めるには最も良い。しかし、学習の過程で心理を大きく取り違えたり、時間を大変多く要するという問題がある。
(一例)
学習プリントを利用して、書き込ませる。これは、心理の流れのうち、重要と思われるものを、指導者があらかじめ、設問の形で指摘しておくものである。
(→資料4) この方法は、心理の流れを大きく誤解することはなく、時間の配分にも都合が良い。しかし、解答に追われて、心理の微妙なひだや表現の特徴などを、見失う恐れがある。
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三、 問題提起を中心にした学習 (学習課題の設定)
主題に直接関わる心理や行動を数項目提起し、その中から学習課題を設定して、個人又はグループで研究させる。この方法は、読解したことをまとめる力、それを表現する力を養うことになる。しかし、個々の生徒に徹するには、かなり多くの個人指導と時間とを必要とする。二のA「図表」、あるいは、B「設問」と併用してもよい。
また、第三節のように、生徒の疑問を出し合い、主題や構成に関わる内容に整理して、学習課題にする方法もある。
(問題の一例)
(1) 「私」(先生)の、「K」に対する気持ちや態度は、何が原因でどのように変わっていったか。
(次の場面に分けて考えてみよう。)
@ 「K」の恋の告白以後の場面 (下・三十六〜三十九)
A 上野公園を散歩した日の場面 (四十〜四十三)
B その翌日以後の場面 (四十三〜四十四)
C 求婚以後の場面 (四十五〜四十七) D 「K」の自殺した夜の場面(四十八〜四十九)
(2) 「K」の求めた理想とは何であったか。
(3) 「K」は、「私」(先生)がお嬢さんを恋していることをなぜ気づかなかったのか。
また、「私」はなぜKに自分の気持ちを話せなかったのか。
(4) 「K」はなぜ自殺したのであろうか。
(5) この小説はなぜ「こころ」となっているのであろうか。
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四、 主題の確認
先ず教材採録部分の主題を確認し、次に小説全体の主題に発展的に向かう。 (1) 教材採録部分の主題は、第三章第二節に述べたように、「近代人の我執(自我・エゴイズム)とその倫理性の問題」である。具体的には、絶対倫理の道に精進するKと、人間的に倫理的に生きようとする先生とが、お嬢さんを挟む恋愛において、我執が肥大し、自己を追い詰めていく。
そして、自殺という、生命の全重量をかけた行為が、この主題の問題提起を切迫したものにしている。
(2) さらに、長編全体の主題として、「近代における人間存在の問題」「時代精神の問題」などを、次の事項を手掛かりに学習する。そのために、小説全部を読むように指導する。
@ 閉ざされた自我の世界
本来、近代的社会においては、他との交渉の中で自己を変革し、他に向かって進んでいくという、弁証法的展開をする。しかし、Kも先生も、他との心の交渉が乏しい。 Kと先生は、機会がありながら互いの心を打ち明けあうことをせず、自己変革を拒否している。 特に、先生は、愛する妻の「純白」を保つために、自分の苦悩を一切告白しないまま、死を選ぶ。「こころ」が閉じられた自我の悲劇であるゆえんがそこにある。 (上・先生と私、下・先生の遺書) A 若者の都会流出
日本の「近代化」は、若者を都会に向かわせた。学問や仕事のために、故郷を捨てた若者は、帰るべき所もなく、根無し草となって都会の波に浮かぶ。Kも先生もそして、語り手の「私」も、故郷を捨てた「淋しい」人達である。また、地方に残された老人達も、孤独の中に淋しく死んでいく。ここにも近代という時代の悲劇がある。 (中・両親と私、下・先生の遺書) B 世代の批判と継承
先生は遺書の中で、「私」に対し「あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」という。自己処罰と淋しさのために、己れの時代の終焉を意識して自殺する時にも、自己の存在が継承されることを願う。批判される形であっても。ここに、文化(文明)の弁証法的発展が生まれる。 |
第三節 生徒の抱く疑問点 |
実際に学習の作業をはじめる直前、ないしは途中で、この作品についての疑問点を挙げさせると、学習を進めるに当たってのよき示唆となる。また、この疑問を整理して、学習課題とすることも可能である。
今までの経験から、生徒が抱く疑問の主なものは、次の通り。
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[教材採録部分から]
@ Kは、同じ下宿にいながら、「私(先生)」がお嬢さんを愛していることに、なぜ気づかなかったのか。
A Kは、なぜ自殺しなければならなかったのか。元の第一信条にもどることはできなかったのか。
B Kは、上野から帰った晩に、襖を開けて何を話したかったのか。また、なぜ話さなかったのか。
C Kは、自殺する晩に、なぜわざわざ襖を開けたのか。
D Kは、友人の裏切りを知ってから死ぬまでに、なぜ何日もあったのか。
E Kは、遺書になぜお嬢さんのことを書かなかったのか。
F 先生は、Kから打ち明けられた時、自分もなぜ思い切って、Kに打ち明けなかったのか。話し合うことが出来るのが親友ではないのか。
[小説全体から]
G 先生は、なぜ奥さんに告白しなかったのか。打ち明けられなかった奥さんこそ、打ち明けない先生よりつらかったのではないか。愛しているなら、奥さんの気持ちをもっと大切に考えるべきではなかったか。
H Kの死は、先生の裏切りだけが原因だろうか。先生は死ぬほど自分を責める必要はなかったのではないか。
I 奥さんは、夫である先生の、苦しみの原因になぜ気づかなかったのか。直接話されなくても、自分に関係ありそうだくらいのことはわかるはずだ。 J 「私」(語り手)は、危篤の父を捨てて上京したが、その後どうなったか。家族にどのように謝ったのか。
K 「私」の現在の生活がなぜ描かれないのか。 ☆ 以上の疑問は、みなすべてこの小説の主題に関わっていることに気づく。これらの答えは前章で述べ
たごとく、一つではない。この疑問を、学習の過程で生徒全員に提起して、考えさせ討議して、幾つかの答 えを導くと、さらに新しい疑問が生まれるはずである。「こころ」は、このような疑問を見付け出す学習が可 能な、奥深い作品なのである。 |
第四節 発展学習 |
(1) 感想文・評論文を書く
@ 初発の感想文 作品を読んだ直後に感想文を書くことは、生徒にとって新鮮な感想を留めて置くことに意味があるし、指導者にとっても、その作品に対する生徒の読解力を知るうえで大切である。
しかし、どんな作品でも初発の感想文を書かせることは、小学校時代から実施しているため、導入がマンネリ化し、生徒に学習意欲を失わせかねない。作品の内容を考慮して書かせる必要がある。
「こころ」は、感想文を書き易い作品であり、上記の疑問を提出させるためにも、ぜひ書かせたい。
A 学習後の感想文および評論文 「恋愛と友情」「自我と倫理」など、テーマに関わる題名で、感想的な文章や評論文を書かせるとよい。
(2) 発展読書をする
我執(自我・エゴイズム)と友情との葛藤を主題にした作品を読ませ、比較させる。すでに読んでいるであろう「友情」(武者小路実篤)、「走れメロス」(太宰治)な。
(3) 長編小説を読む
これを機会に、長編小説に興味を持たせ、内外の長編を紹介する。
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