水 城 を 歩 く
早春、梅の香の漂う中、水城(みずき)を歩きました。 ますらをと 思える我や 水茎の 水城の上に 涙のごはむ 天平二年(730)十二月、大伴旅人が大納言になり、平城京(ならのみやこ)に向かい太宰府を発つ時の歌です。自分は強い男だと自負していたのに、いざ別れるというとき、太宰府を見下ろす水城の上に立つと、思わず涙がこみあげてしまうという歌です。日頃親しくしていた児島という名の遊行女婦(うかれめ)がそっと旅人に歌を贈ります。その歌に和して詠んだ返しの歌です。「ますらをの自負」と「こみあげる涙」との対照に、人情家としての本音がよく出ていると思います。遊行女婦は、後世の遊女とは違い、宴席で官人たちと対等に歌を詠むことのできる教養ある女性でした。 日本書紀の天智三年(664)の条に、「対馬・壱岐・筑紫国に、防人(さきもり)と烽(とぶひ)を置き、筑紫に大堤(おおつつみ)を築き水を貯え、水城(みずき)と曰(なづ)く。」とあります。現在、美しい樹木の帯となって、大野城市と太宰府市の境にある巨大な丘陵が「水城」の遺構なのです。 水城が築かれる一年前、天智二年(663)八月に、百済救援のため2万7千人の大部隊が海を渡り、錦江(クムガン)沖で唐と新羅の連合軍に挟まれ大敗を喫しました。いわゆる白村江(はくすきのえ)の戦いです。もはや百済救援どころか、日本の国さえ危うくなり、連合軍を防ぐため、まず、九州のかなめである太宰府を守るべく、急いで水城を築いたのでした。
最近の発掘研究から、高さ13m、幅80mの土堤が延々1.2kmも続いていて、さらにその外側、福岡側(海側)に幅60mの壕が造られ、水が満々と貯えられていたと思われます。まさに「水城」だったのです。その水は太宰府のそばを流れる御笠川から、木樋(もくひ)と呼ばれる巨大な水路を作って堤の下から流し込んだというのですから、当時とては最高の土木技術を駆使したものでした。百済からの亡命技術者によって指導されたと考えられています。出入り口は二か所で、東と西に門が設けられて監視していたようです。幸か不幸か、この水城は一度もその役目を果たす機会がありませんでした。 私はJR鹿児島本線の水城駅で降り、まず西側の大利(おおとし)側の土手を歩きました。こちらに西門が設けられていたようですが、頂きは樹木に覆われていて見当もつきません。切り開かれたあたりに水城寺という小さなお堂を見つけました。このあたりには内側(太宰府側)に溜池があり、水城の樹木が浮かんでいるように見えました。「水城」の雰囲気を醸し出しています。
次に駅の東の水城に登り歩きました。こちらも大木の根がからまり、見通しも悪く、歩くのに苦労しました。早春とはいえ、汗が噴き出してきました。急に視界が開け、目に鉄道と川と高速道路が飛び込んできました。西鉄大牟田線と御笠川と九州自動車道です。大きく迂回して、下流の橋を渡り高速道路の下の国道3号線から最後の水城に登りました。ここには、東門の礎石が残っており、旅人もここから水城の上に登ったに違いありません。
旅人が水城に立った時は、築城から六十六年後で、外敵の怖れも少なく、すでに樹木も茂りはじめ、その土堤の厳めしさも少しずつ失われていたものと思われます。眼下遙かに、冬の木立の中に太宰府の多くの堂塔が眺められたことでしょう。 しかし今は、太宰府の堂塔はなく、代わりに巨大な現代の「乾いた長城」が延々と南に続き、その上を無機的な「近代文明の申し子」が絶え間なく走っているだけでした。ただ、どこからともなく梅の香が漂ってきます。やはりここは太宰府、梅は春を忘れてはいないのです。
(「チャーリングのひろば」第15集掲載 05.8) |