西国街道  国境くにざかい の 物 語

         
 
  いにしえの西国街道の安藝あきと周防すおうの国境は、北は四郎峠から南は欽明路峠まで、山また山のただただ険しい道です。しかし、そこには歴史上多くのの物語が展開します。
  
    
高庭の駅家での客死

  まずは万葉集に登場する大伴おおともの熊凝くまごり。天平三(七三一)年六月十七日に安藝国佐伯郡高庭たかにわの駅家うまやで、あたら十八歳の命が絶えました。
 九州肥後生まれの若者にとって、奈良は憧れの夢の都。相撲使
すまひのつかひに従人ともびととして、太宰府から七夕の節会せちえのために力士を連れての華やいだ旅立ちでした。しかし、道中病いに罹かかり、夏の暑さも加わり苦しい旅となりました。難所の磐国山いわくにやま(今の欽明路きんめいじ峠)をはじめとしてきつい山道が延々と連なる国境の地は、もはや耐え難いものでした。やっと安藝の国の高庭たかにわの駅家うまやにたどりついたときはもはや動けない重症でした。丘の向こうの厳島の山々を見ながら亡くなりました。この高庭駅家は今の大野町高畑たかばたけ付近にあった思われます。 平安時代には農唹駅のおのうまやと呼ばれ、これが「おおの」の語源になったとも言われます。
  熊凝の客死の報は大宰府にもたらされ、麻田陽春やすと山上憶良が我が子の死を悼むかのように、熊凝に成り代わって歌を詠みます。その歌群は万葉集巻五の悲劇を彩っています。歌碑が高畑の細い旧街道沿いにあります。

 
出でて行きし 日を数えつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母ちちははらはも  
 (家を出て行った日を指折り数えて、今日こそは今日こそはと、私を待っていらっしゃることであろう、父よ母よ。)               (万葉集890 山上憶良)
      
      厳島祈願

  次に登場するのは六百年後の武将の今川貞世さだよ(了俊りょうしゅん)です。
足利義満の命を受け九州探題として大宰府に向かう途中、 応安四(一三七一)年九月にこの国境にかかりました。その時の様子が貞世の紀行文「道ゆきぶり」に載っています。 南北朝合一の21年前、世は足利幕府に靡いてはいましたが、西国や九州の地ではまだ南朝方の勢力が乱を起こしていました。武将である貞世は各地の豪族を率いて船団を組み、自らは馬で街道を行きました。西国の守護や豪族との交渉のためと思われます。
  安藝の海田かいた(現在の東海田付近)の港に船団を集結させました。貞世は約二十日間この港に滞在し、九月十九日佐西ささい(廿日市)の港に入り、翌日一日かけて厳島の神に必死に戦勝祈願をしました。この貞世の紀行には、死の影を背負って戦場に向かう武将としての決意と歌人としての哀しさが随所にうかがえます。
  南北朝合一直前の一三八五年にも義満を伴い再び厳島に参詣しています(了俊「鹿苑院殿厳島詣記」)。
   

     大野浦の駅名

  九月二十一日早朝再び街道を馬で駆け、大野浦に着きました。南下する船団をこの浦で見送り、歌を詠みます。
彼は武将であるとともに有名な歌人でもありました。
 
 大野浦をこれかと問へば山梨やまなしの片枝かたえの紅葉もみぢ色に出でつつ
(大野浦というところはここかと尋ねると、山梨の片方の枝が紅葉の色をはっきりと出しながら「そうですよ」と答えている)

  この歌からJR「大野浦」の駅名が採られたと言われています。歌碑が大野浦駅前に建っています。
    
    
磐国山いわくにやまの手向け

 貞世は大野から国境の長く険しい山道を経て、錦川左岸の岩国宿多田に泊まりました。ここは現在山陽道岩国ICのあるあたりです。翌日磐国山を越えます。万葉集にある山口若麻呂の
  
周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその路
の歌を思いおこし歌を詠みます。
 
 足乳根たらちねの親に告げばや荒してふ岩国山も今日は越えぬと

万葉集の若麿の歌碑は旧柱野宿はしらのじゅく近くの柱野小学校内にあります。
    
     門山城かどやまじょ陥落

 
 それから二百年後の天文二三(一五五四)年、大野浦駅の背後の岩山にある門山城かどやまじょうを毛利元就配下の吉川元春きっかわもとはる軍が攻め落としました。もともと大内氏が西国街道を眼下に押さえる城塞として築いた難攻不落の城でした。長門周防二国を平定し安藝をうかがう陶すえ晴賢はるかたが、この城に籠り安藝攻略を計画していました。吉川軍の激しい攻撃に敗れた晴賢は海に出て厳島に逃げます。それは元就の計略でした。島に追い込まれた晴賢は翌年の厳島合戦で敗北し、毛利氏は中国一の戦国大名にのし上がりました。
    
       長州戦争の悲劇
 
  それからさらに三百年後の慶応二(一八六六)年、長門と周防の二国に閉ざされた毛利軍がこの国境で幕府軍と戦いました。第二次長州戦争です。幕府軍の陣屋は、皮肉にも毛利元就が厳島合戦で陣を敷いた廿日市桜尾城でした。戦況は一進一退、国境の小方・玖波・大野・廿日市の宿場は敵味方に焼き払われてしまいました。守るも攻めるも家を焼いたのです。死者も多数にのぼり、今、妹背の滝の近くに千人塚の埋葬跡が残ります。        
    
      残念さん

  幕府軍は諸藩寄せ集めのため次第に戦意が衰え、桜尾城で指揮する京都所司代は停戦交渉をするため、自藩の宮津藩士依田よだ伴蔵を使者に立てて、七月九日長州軍本陣の岩国に向かわせました。四十八坂を登り大野と玖波の境の峠に着いた時、潜んでいた長州軍の狙撃兵に誤って撃たれてしまいました。伴蔵は住民に助けられながら、最後に一言、「残念」と洩らして息絶えました。住民たちはその無念さを思って、峠に祠を建てました。いつしかその祠は「残念さん」と呼ばれるようになりました。維新後、話が伝わり丹後の宮津から大勢お参りに来て、命日には市が立ったとのことです。
 今も、地元の方達が清掃し花を手向けています。
 
    
麻里布まりふの浦の幻想

 天平八(七三六)年六月の中旬、遣新羅使人けんしらぎしじんの見た朝日に輝く麻里布の浦は、白砂青松の素晴らしい海岸で、しかも船から眺めただけで素通りしたのですから、なおさら美しく、幻のように残像として心に焼きついたことでしょう。
 眞楫まかじき船し行かずは見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを
(楫を操って船さえ漕いで行かなかったら、見飽きないこの麻里布の浦で一泊できるだろうに)
 その浦は現在の麻里布・室の木・今津へと北東から南西に向かって続いていたと考えられます。現在の山陽線岩国駅あたりはもちろん海の底でした。
 遣新羅使人は、白村江はくすきのえでの日本の大敗北以来国交が断絶したままの新羅と、関係改善を図るため朝廷が派遣した親善使節団でした。大使は阿倍継麻呂。四月に難波の港を出て2か月、やっと長門島(現在の倉橋島)の港(本浦)に着きました。
 遣新羅使人一行は日程の遅れを取り戻すため、長門の島からあえて危険な夜(十三夜頃か)の船出をし、上げ潮にのって安芸灘の西側を北上、潮どまりを待って厳島の南の阿多田島あたりで西に横切り、今度は下げ潮に乗り早朝から一気に南下して約6時間、潮が止まるころ大島の鳴門なると(大畠の瀬戸)を通過し、満ち潮に反流する潮に乗ってさらに南下。夕方上関かみのせきの瀬戸に入り熊毛くまげの浦に着いたと思われます。すべては「一日」を浮かせるための計算された行程で、そのため麻里布には寄らなかったのでしょう。
 なお、長門の島(倉橋)から麻里布(岩国)までは直線距離にして25q。潮止まりの四十分ではとても手漕船では横断できません。しかも安芸灘の潮の流れは複雑で、今も、潮どまりで凪なぎのときでも高速船が激しく揺れます。
 ところで、今津にある白蛇しろへび飼育所で面白い地図を見ました。岩国名物の白蛇が多く棲息していたのは、麻里布・室の木・今津で、それより西にはいなかったようです。つまり、古の麻里布の浦に沿っているのです。白い砂に合わせたような白い肌で青い松にからだを巻きつけ潮騒を枕にうたた寝をする、そんな麻里布の浦の白蛇の、のどかな風景が幻のように脳裏をよぎりました。     
                      2008.8月  川野正博

       ( 2008.8.27「チャリングのひろば 第18集」 掲載 ) 

  古代の山陽道と
  遣新羅使人一行の 航路(往路)
 
古代の麻里布と岩国周辺 

  陸上の黄色の線は古代の山陽道
   (◎は延喜式の駅;延長五[927]年)
 陸上の黒の実線は国道2号線(バイパスは除く)
 赤の太い線は山陽自動車道

☆古代山陽道と山陽自動車高速道がほぼ並行している
     京と九州を最短距離で結ぶという目的が同じだった
 海上の白線は遣新羅使人一行の航路
   [往路](天平八[736]年六月)
 陸上の斜線部分は、古代には海であった 

 古代山陽道は大竹の小方から苦の坂を越え木野(この)と小瀬(おぜ)の 渡しを経て関戸の岩国の駅に出て多田から錦川を御庄(みしょう)に渡る。御庄から柱野(はしらの)を通り、険しい山道を登り欽明路峠(磐国山)に至り、野口の駅に出る。
   

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