その四  客死 (かくし)
         
                             
 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 
      勝れる宝 子にしかめやも          憶良    
  親にとって子は宝である。その宝の子に先立たれるほど悲しいことはない。それも親や家族から遠く離れた旅の空での客死となれば、なおさらであろう。
                                   
  大伴熊凝(おおとものくまごり)は、九州肥後の若者である。若くして夢を抱き、太宰府に出て官庁に勤めた。真面目に働いた。十八歳の春、思いもよらない吉報が入った。初秋七夕の夜、宮中で相撲が催される。その力士を連れて花の都の奈良へ行くことを命じられたのである。孝行な彼は、出世して親を喜ばせたく、相撲使(すまいのつかい)のお供として、勇んで初夏の太宰府(だざいふ)を発(た)った。天平三年(七三一年)のことである。      
  
  現在新幹線で一時間半の博多〜広島間も、当時は陸路で半月以上かかった。
しかも、彼にとっては初めての長旅。関門海峡を渡るまでは元気だったが、日々強くなる夏の日差しに、難所の岩国山を越える頃には、疲労が激しく、病(やまい)にもかかっていた。
  
  山陽路を北にとり、錦川を渡り、小瀬川を渡って安芸の国に入った時、彼は
すでに歩くことすら容易ではなかった。暑い。のどが渇く。しかし水はのどを通らなかった。吹き出した汗が身体中を黒く流れる。同僚の役人や力士達に抱えられながら、炎暑と草いきれのなかを、からくも高庭(たかば)の駅(うまや)にたどり着いた。                  
  
  この駅は、佐伯郡大野町か佐伯町にあったと推定される。        
  草ぶきの駅舎から、小高い濃い丘陵を隔てて厳島(いつくしま)の弥山(みせん)の山並みが雲のない空に鋭く刺さっている。その上を鳥が高く大きく輪を描いている。日はかなり長(た)けている。鳥になりたい。鳥になって肥後の母のもとに帰りたい。    
  
  高熱と悪寒に犯されながら、頭の中を死の影がよぎってゆく孝行な彼は、故
郷の父母に先立つことが悔しかった。死ぬのはさして怖くない。親を苦しめることが悲しかった。彼は父母に先立つ不幸を同僚に語りつつ、十八年の命を旅で終えた。
 
  この熊凝客死(かくし)の知らせは、時を置いて太宰府へもたらされた。役
人達はみんな泣いた。中でも、筑前守(ちくぜんのかみ)山上憶良は、わが子の死のごとくに歌を詠んだ。漢文の序と長歌と、そして短歌五首を詠んだ。(万葉集巻五)
 
  家にありて 母が取り見ば 慰むる 
                  心はあらまし 死なば死ぬとも  
 我が家で母が介抱してくれるなら、気持ちは慰められるだろうに、たとい死ぬなら死んだとしても。   
 
  出(い)でて行きし 日を数へつつ 今日今日(けふけふ)と     
       吾(あ)を待たすらむ 父母らはも     
 父母は今日帰るかと帰りを待っていらっしゃるだろう、ああ。
  今、大野町の
緑陰豊かな古道にたたずむ時、道の辺の小草の下から、母を呼ぶあえかな声を聞くことができよう。    
      
            (一九八九年七月一日「桐一葉」第七号より) 
                               
研究資料  目次へ戻る  その五