防人歌(さきもりのうた) |
万葉の悲劇 その三 研究資料 |
[名称] 唐の六典天に「辺要 置 防人 為 鎮守」とある。
日本ではこれを真似て、九州太宰府に防人司(さきもりのつかさ)を置いた。欽明(きんめい)天皇のとき設置され、弘安十年(1287)くらいまで、約六百年間あった。
語源は「埼守(さきもり)」。
[万葉時代の防人]
@斉明(さいめい)天皇の時、百済(くだら)を救援するため日本兵二万七千人が動員されたが、天智二年(663)白村江(はくすきのえ)の戦で大敗し、大部分の兵が唐の捕虜になった。この時の兵は多くは九州出身者であった。
A天智三年(664)唐・新羅(しらぎ)に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(のろし)とを置き、筑紫に水城(みずき)を築くことになった。防人は諸国から集められた。二十一歳から六十歳の男子で、三年間の勤務。
B天平二年(730)諸国の防人を国に帰し、専ら東国から派遣することになった。兵士逃亡と疫病による社会不安を収めるためと考えられる。しかし、疫病が各地で頻発し、農村の労働力不足が深刻化し、天平九年(737)東国の防人も故郷に帰された。
C天平勝宝(てんぴょうしょうほう)七歳(さい)(755)防人制度が復活し、東国の農民が筑紫へ派遣された。この防人もやがて廃止された。防人の通過する国々の負担が大きいため各地から不満が出たためと考えられる。仲麿政権は天平宝字(ほうじ)元年(757)西国の兵士で東国の防人に代えた。
[万葉集における防人歌]
東国出身の防人に限られている。当時の東国出身の防人は約千人で、三年勤務。二月が交替時期であった。また、勤務地までの旅費は自費で、現地では屯田兵式の生活であったと考えられている。
「防人の歌」は、防人当人およびその関係者の歌である。
[歌 数] 合計 98首
巻十四 a 防人歌 5首
巻二十 b 天平勝宝七歳(755)の防人歌 84首
c 昔年(さきつとし)の防人歌 8首
d 昔年に相替わり防人歌 1首
[天平勝宝七歳(755)の防人歌]
(編集者)大伴家持が編集したもの。彼は兵部省(ひょうぶしょう)兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)に任ぜられ、防人の召集事務の担当者となった。
すなわち、防人部領使(さきもりのことりのつかさ)が連れてきた防人を難波(なにわ:大阪)に集める仕事だった。
大伴家持は、この防人部領使から集めた防人歌を撰し、万葉集に載せたのである。防人を思う家持自身の歌も23首載っている。
(作者)すべての歌に作者名が出ている。
○一人で二首採録された者 3人 (常陸)
○長歌を採録された者 1人 (常陸)
○防人の妻の歌 6首 (武蔵)
○防人の父の歌 1首 (上総)
○防人の母の歌 なし
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万葉集巻第二十 天平勝宝七歳(755)の防人歌 |
国名 | 提出日 | 提出歌数 | 採録歌数 | 提出者内容 |
遠 江 | 二月六日 | 18首 | 7首 | 史生 坂本 人上 |
相 模 | 七日 | 8 | 3 | 守 藤原 宿奈麻呂 |
駿 河 | 七日 | 20 | 10 | 守 布勢 人主 |
上 総 | 九日 | 19 | 13 | 少目 茨田連 沙彌麻呂 |
常 陸 | 一四日 | 17 | 10 | 大目 息長 国島 |
下 野 | 一四日 | 18 | 11 | 正六上 田口 大戸 |
下 総 | 一六日 | 22 | 11 | 少目 県犬養 浄人 |
信 濃 | 二二日 | 12 | 3 | 使が道中病のため来ず |
上 野 | 二三日 | 12 | 4 | 大目 上毛野 駿河 |
武 蔵 | 二九日 | 20 | 12 | 掾 安墨 三国 |
計 | 166首 | 84首 |