新デタントによりイ・イ戦争が終結し、地域紛争も縮小している。アフガニスタンからソ連兵、カンボジアからベトナム兵が故国に帰還していった。昨年末のテレビに映るその若い帰還 兵の笑顔は、何よりも平和の尊さを語っていた。一方で、情報 公開により、若いソ連兵の戦場での姿が放映された。帰れば英雄だと励まされてアフガンの戦場に来たものの、不安と望郷の念にさいなまれ、たまの家族からの便りと恋人の写真を唯一の支えに戦っていた。これは十六年前のベトナムでのアメリカ兵の姿であり、四五年前の日本兵であり、千二百三十年前の防人の姿であった。 天平勝宝七歳(七五五年)の晩春、緊張続く新羅との戦(いくさ)に備えて、約千人の防人が分乗した小舟の大群が、九州に向けて次々と難波の港を舟出していった。その防人のすべてが中部や関東の農民であった。理由はただ「お前達は勇敢だから」。しかし真実は、故郷が遠いほど逃亡しないからである。それほど、屯田兵としての防人の生活はつらく苦しかった。 彼らは突然に村の長(おさ)から呼び出され、「大君の命令が恐れ多いことを教えられ、直ちに出発するよう命じられた。 韓衣(からころむ) 裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして 裾に取りすがって泣く幼な子達、母のいないこの子達はこれからどうなるのか。だが、どうするすべもなく出発しなければならない。 父親の悲痛な思いが聞こえる。防人達は、子や父母や妻との別れの切々の思いを、訥々(とつとつ)と歌う。
父母が 頭(かしら)かき撫で 幸(さ)くあれて
言いし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる 父母が私の頭を撫でて、無事であるようにと祈ってくれた言葉を忘れることはできない。若い兵士の歌である。万葉には父母、とりわけ母への歌が多い。それだけ未婚の若い農民が多かった。
大伴家持は万葉集に、七五五年の防人歌を八四首載せた。
そのうち妻への歌27首、次いで父母への歌23首。また、妻の作った歌が6首ある。
わが妻も 絵に描き取らむ暇(いつま)もが
旅行く我(あれ)は 見つつ偲ばむ おれの妻を絵に描き、旅の空でその絵を見て偲ぼう。
妻や恋人の写真を支えとする兵士の心がここにある。ただし、防人には絵を描く時間がなかった。あまりに慌ただしい旅立ちであった。
彼らには、これから屯田兵としての苛酷な任務が待っている。帰還できるのは、少なくとも三年の後であった。
(一九八九年二月一日「桐一葉」第六号より)
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