万 葉 の 悲 劇 その一 恋
人を恋い始めることを、「恋の初風(はつかぜ)」という。やがて二人は「恋の坂」を上り、「恋の峠」に至る。しかし、ここで二人は多くの「恋の関(せき)」に隔てられ、「恋の闇路(やみぢ)」をさまよい、「恋の蛍(ほたる)」となって身を焦がす。恋には恒に悲劇性が伴い、これが世界の芸術を生み出し、文学を育(はぐく)んできた。 平城(なら)の都にひとりの女官(にょかん)がいた。若い上司に恋をし、二人は恋の坂道を峠までのぼっていった。しかし、男は罪人として越前(えちぜん)の国に流された。まさに晴天の霹靂(へきれき)と言おうか。 女はこの日から闇路をたどることになったのである。
☆ 君が行く 道のながてを 繰りたたね [あなたの行く道をたぐり寄せ、たたんで焼き尽くす天の火がほしい] と激しく悶える。男も、越前に向かう峠に立って、思わず女の名を呼んだ。 女の名は、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ・茅上娘子ちがみのおとめとも呼ぶ)、男は中臣宅守(なかとみのやかもり)。
天平(てんぴょう)十一年(739年)のことである。 娘子の歌23首、宅守の歌40首が、今、万葉集巻十五に残る。
天平十二年大赦(たいしゃ)があり、流人(るにん)が都に帰された。が、男の姿はなかった。
[許されて帰った人がいると聞き、死ぬほど嬉しかった。あなたかと思って] 恋の苦痛は悲劇性を帯びるが、しかし、いかなる快楽よりも甘いという。この時の女の涙は、さぞや甘かったに違いない。 |