葉の悲劇                    その二         

                                                       

  人生は旅。人は人生がそうであるように、旅に、複雑で矛盾に満ちた体験をする。

 私達は日常、感情と思考、精神と肉体、 興奮と倦怠など、二元的に生きている。しかし旅は、立つも残るも、その日常を断ち切らねばならない。別離・不安・断絶を経て、新たな邂逅・期待・飛翔の座標に移る。そして、その旅立ちは、必ず孤独を伴い、望郷の霧に包まれる。
 
 万葉における旅には、三つある

一つは役人が任地に赴く旅。二つは出征兵士(防人)の旅。三つは流罪の旅である。


 天平(てんぴょう)八年(736)の盛夏、難波(なにわ)の港を一隻の大船が、新羅(しらぎ)に向かおうとしていた。                                             

 

 君が行く 海辺の宿に 霧立たば
         吾が立ち嘆く
息と知りませ
 


 あなたがこれから行く海辺の宿に夜霧が立ち込めたなら、私の吐息と思って下さい。

 愛する人を送る女の嘆きである。男は答える。                         

 

 秋さらば 相見むものを 何しかも
         霧に立つべく
嘆きしまさむ
  


    秋になったらまた逢えるのに、何で霧に立つほど嘆きなさるのか。

 唐と違い、半島の新羅は近い。秋には帰国出来る予定だった。時の朝廷は、対立する新羅との関係の修復に大使・阿倍継麻呂以下四十数名の使節団を派遣した。しかし、歓迎されないであろうことは、既にわかっていた。男は避け得ない勅命に、不安と未練とに彩られつつ、一行に加わり旅立ったのである。  

 女は祈るしかなかった。「行くのをやめて」とは言えない。     



 たくぶすま 新羅へいます 君が目を
     今日か明日かを
(いは)ひて待たむ



 ただ神に祈って待つしかなかった。手漕ぎの船は女達を残し、瀬戸の海を西へ西へと進んだ。

 安芸の国風早(かざはや)の浦に停泊した時、珍しく沖に夜霧が立った。 


  わが故に 妹嘆くらし 風早の
         浦の沖辺に
 霧たなびけり



 私ゆえに女は嘆いているらしい、浦の沖べに悲しげな霧がたな びいているよ。

 女の激しい嘆きが霧を呼んだに違いない。望郷が男を襲う。さらに霧は旅の不吉を予感させる。やがて恐れていたことが次々と現実になった。 
 周防灘(すおうなだ)で漂流し、太宰府での天然痘騒ぎにより出国準備が遅れ、帰国のはずの秋が来ても、まだ九州にいた。ついに一行の中に死者が出た。明日は我が身か。不安がつのる。夜毎に恋しい人の面影を抱いて明かした。  やっと新羅に渡るが、交渉に失敗。大使は帰途対馬に没す。副使大伴三中(おおとものみなか)も病に染まった。九州の地で年は空しく流れる。

 一行が平城(なら)の都に帰れたのは、翌年の晩春である。九か月余の悲しい旅であった。そしてこの年の夏、日常に埋没していた都の中を、天然痘の猛威が吹抜けていくのである。
  

(一九八八年二月二二日「桐一葉」第四号より 
      川野正博「万葉の悲劇 旅」)

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