万 葉 の 悲 劇 その十五 |
人麻呂のなぞA 梅原猛の挑戦 |
人麻呂の死に関わる歌は、巻二に五首存在します。「鴨山(かもやま)五首」と呼ばれています。
「死に臨(のぞ)む時に自ら傷みて作る歌」と題し、 鴨山の 岩根し枕ける われをかも
知らにと妹が 待ちつつあらむ (鴨山の岩を枕として横たわって今まさに死のうとしている。そんな私のことを知らないで、妻は、私の帰るのを待ちわびていることだろう)に始まっているためです。 斎藤茂吉は「鴨山考(かもやまこう)」において、この五首を二層に分解し、後半の二首は制作事情から言って同列に扱えないとし、考証から除外しました。除外されたのは、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)の歌の後に載っている、丹比真人(たじひのまひと:名は不明)が人麻呂の無念さを思い、代わりに詠んだ擬報歌(ぎほうか)です。
哲学者梅原猛は、「茂吉よ、あなたはいったいどんな権利があって、こういう馬鹿げたことをいうのか。」と痛烈な批判をし、自らの人麻呂像を描きました。一九七三年十一月「水底(みなぞこ)の歌」と題する書が新潮社から発刊された時、万葉研究者を始め多くの万葉愛好者の間に大きな衝撃が走りました。梅原は、江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)以来、多くの学者が自説に合わないからと切り捨ててきた歌を蘇らせ、人麻呂に関わる歌や人麻呂歌集の歌を組み合わせ、さらに後の書物にある人麻呂伝承をすくい上げて、総合的に人麻呂像を描いたのです。まとめてみると、次のようになります。 人麻呂は、続日本紀(しょくにほんぎ)の和銅元(七0八)年に六十歳を過ぎて亡くなった柿本朝臣佐留(さる)と同一人で、壬申乱(じんしんのらん:六七二)では三十代半ばの若者として戦い、天武・持統朝において活躍していた。(従来の学者は、二十歳若く考え、四十代半ばで亡くなり、生涯六位以下の低い身分で、舎人から後に地方官になったと考えていました。これは賀茂真淵以来の説です。)
人麻呂は、六八九〜七〇〇年の間、宮廷歌人となり、皇子の死に際しては沈痛な挽歌や天皇の行幸の荘重な賛歌を作った。持統天皇から従四位の高い地位を与えられ、政府高官として活躍していたのである。ところが藤原不比等(ふびと)らの権力争いに巻き込まれ、さらに恋愛事件も加わり、持統天皇の逆鱗(げきりん)に触れて、遂に石見(いはみ)の国で水死刑に処せられることになった。齢(よわい)はすでに六十を過ぎていた。
益田市沖にあった高津の「鴨島(かもしま)」が当時の流刑地(るけいち)で、ここに流された人麻呂は、ある日、縛られたまま海に沈められた。「鴨山」はこの鴨島のことである。ところが、この鴨島は、一〇二六年の大津波で水没してしまった。なお、人麻呂の亡くなった七〇二年は「申(さる)年」で、続日本紀の「佐留(さる)」は申年にちなんで付けられた貶名(へんめい・官位下げて付けられた名)であろう。ところが、人麻呂の死後、彼の怨霊(おんりょう)が祟(たた)りを始めた。十二年後の申(さる)年に不比等(ふびと)が死に、さらに天変地異が続く。人々は「申(さる)年の変事」として恐れ、柿本神社が創建され、佐留(さる→猿)の名を与えて殺された人麻呂の怨霊の鎮魂を図った。さらに人麻呂には三位(さんみ)の位が与えられた。そして、このような人麻呂の怨霊を鎮魂するために、「人麻呂」として名を改め、復権と顕彰をしたのが「万葉集」なのである。
この梅原説は、万葉学者の常識を破るもので、数多くの批判や反論が出たことは言うまでもありません。彼は鴨島説を証明しようと、四年後、自ら調査団を組織して海底調査まで行いました。その二年後「歌の復籍」という書を出版し、自説の正当性を主張しています。しかし、万葉学者の多くは全く認めてはいません。
(一九九八年十月二十一日「桐一葉」第二十五号より) |