万 葉 の 悲 劇 その十四
 
人麻呂のなぞ@   茂吉の執念
                                   
                                                                 
 
麻呂の死は今もなぞの霧に包まれています。その霧をはらそうと、昔から多くの人たちが研究を重ねてきました。その中で特に情熱を燃やした人が二人います。一人は歌人の斎藤茂吉、もう一人は民俗学の梅原猛です。その研究は、前者は「鴨山考(かもやまこう)」、後者は「水底(みなぞこ)の歌」として発表されました。しかし、二人の説は真っ向から対立しています。
 
 人麻呂は、万葉集巻二によると、石見の国において、死に臨んで最後の歌を詠んでいます。                                                 
      
 鴨山(かもやま)の 岩根(いはね)し枕(ま)ける われをかも 
     知らにと妹が 待ちつつあらむ
(鴨山の岩を枕として横たわって今まさに死のうとしている。そんな私のことを知らないで、妻は、私の帰るのを待ちわびていることだろう)                        

         
その妻の依羅娘子(よさみのおとめ)は、夫の死を知らされ、挽歌を二首詠みます。                                    
 今日今日と わが待つ君は 石川の 
     貝に交じりて ありといはずやも
(今日こそ今日こそと、私が恋しく待っているあなたは、なんとすでに亡くなって、石川の貝に混じっていらっしゃるということではありませんか)        
 
 ただに逢はば 逢ひかつましじ 石川に 
     
雲立ち渡れ 見つつしのはむ
(直接にお会いすることは、もうとてもできないでしょう。だからどうか、石川に雲となって立ち渡ってください。せめてあなたと思って眺めてしのびましょう) 
 
 続いて、丹比真人(名は不明)が人麻呂の無念さを思い、詠みます。
 
 荒波に 寄り来る玉を 枕に置き
     われここにありと 誰か告げけむ 
(荒波に打ち寄せられて来る玉石を枕に置いて、私の屍がここに伏せっていると、誰が妻に知らせてくれたのであろうか)        
 
て、人麻呂の臨終の地と思われる「鴨山」はどこか。そのなぞに歌人の斎藤茂吉は、詩人的直感により古くからの諸説を退け、自分のイメージに合う「鴨山」を探し始めました。「岩根しまける」から岩の多い高い山、依羅娘子は石見の女(前回述べた話)であって、国府にいたとすると、そこから近くはない場所、「石川の貝」は「峡(かひ)」であり、「石川」は「雲立ち渡れ」から、石見の大河の「江ノ川」に違いない。                            
 想像に想像を重ねて、イメージを構築し、なぞの「鴨山」に実地踏査で挑みましだ。苦労に苦労を重ねて、やがて島根県邑智郡粕淵村に「亀」の地を見つけ、カメとカモの音は通じるので、その近くの「津目山」を鴨山と決めました。一九三四年七月のことでした。この感激を「鴨山考」として発表します。しかし、その六年後に、茂吉はこの説を修正します。近隣の「湯抱(ゆがかい)」に「鴨山」の地名が、役場の土地台帳に載っていることを教えられたからです。茂吉は遂に「鴨山」を確定し、霧が晴れた思いで歌を詠みます。                 
 人麿のつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ
(人麻呂が最期の命を終えた鴨山を、まさにここだと決めよう)
 推論の上の仮説とはいえ、二十数年間にわたる執念の調査でした。
     
      (一九九八年二月二十五日「桐一葉」第二十四号より) 


                                                                         人麻呂のなぞ2へ    万葉教室へ