万葉の悲劇 その十三 人麻呂をめぐる女たち 3 |
石見(いわみ)の女 |
どこまでも続く砂浜。幾重にも寄せる波頭が砕けて、白い砂に吸い込まれていきます。ところが、夕闇迫る頃、波は大きなうねりとなって押し寄せ、砂をえぐり、巻き返します。しかし、波のおさまった翌朝は、白い砂浜に、みどりの美しい藻が女体に流れる黒髪のようにやわらかく朝日に輝きます。
人麻呂は、石見(いわみ)の国の役人として赴任し、やがて、角(つの)の里(江津市都野津)に妻を得ました。三度目の妻です。妻の家で夜を明かした彼は、朝日の中を馬で国府の役所に向かいます。通い慣れた道中には、長い砂浜とそれを限る荒い磯があります。荒い磯には、玉のような美しい藻が、互いに身を寄せ合うように、激しい日本海の潮の波間に揺れています。イメージは、愛する新妻の姿態と重なります。彼は歌います。
「石見の海、角の浦廻を浦なしと人こそ見らめ、・・・よしゑやし浦はなくとも、・・・にぎたづの荒磯の上に、か青生ふる玉藻も沖つ藻、はふる風こそ寄せめ、夕はふる波こそ来寄れ・・・」
(石見の海の角の海辺を、人は浦がないと見るだろうが・・・ままよ、たとえ浦はなくても・・・荒い磯の辺りに、青々と生い茂る美しい藻、
沖の藻は、朝吹き付ける風が運び寄せるのだろう、夕方押し寄せる波で寄って来るのだろう・・・) さらに続けて、
「波のむた、か寄りかく寄る、玉藻なす寄り寝し妹」(
波と一緒に、あちこちと寄る玉藻のように、寄り添って寝た妻)と呼びかけます。 また、
「玉藻なす、なびき寝し児を、深海松(ふかみる)の深めて思ふ」(
玉藻のように横たわって寝た妻を深く深く愛する) と歌います。
やがてその妻と別れる日が来ました。朝集使として飛鳥の都へ帰らねばならないのです。時は晩秋。妻のもとで最後の一夜を明かした彼は、青駒(灰色毛の馬)に乗って、後ろ髪を引かれる思いで山道を進みました。道は、角の里で最も高い山をうねうねと巻いています。その曲がるごとに、後ろを振り返り、遥かに遠ざかって行く妻の里に向かって袖を振ります。
「 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を
妹見つらむか」
(石見の国の高い角の山の木の間から、わたしが振る袖を妻は見たであろうか。)
しかし、次第に山が視界を遮ります。図らずも叫んでしまいました。
「妹が門見む、なびけこの山」(妻の家の門口が見たい平らになびけ、この眼前の山よ) と。
やがて道はくだりとなり、風が出て周囲の笹の葉がさらさらと鳴ります。江の川(ごうのかわ)を舟で渡り、また山道に入る頃には一層風が強まり木々の葉が散り急ぎます。振り返り袖を振っても、角の里はもう見えません。涙に濡れた目に、黄葉(もみじ)が降りしきります。
「秋山に 落つるもみじ葉 しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む」(秋の山に散るもみじよ、しばらくは散り乱れてくれるなよ、妻の里の辺りを見たいから)
しかし、もうどうやっても角の里を見ることが出来ないのです。そのうえ、同行者の待つ港に急がねばなりません。その時です。今まで雲に隠れていた夕日が西の空を染めて、浅利冨士と呼ばれる屋上山(やかみやま)の端正なシルエットを描き出しました。彼は思わず、男泣きに泣くのでした。
(万葉集巻二・131〜139) (一九九七年二月十三日「桐一葉」第二十二号より)
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