万葉の悲劇 その十三 石見の女 |
研究資料 |
巻二 柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)、石見国(いはみのくに)より妻を別れて上(のぼ)り来る時の歌 二首 併せて短歌
131
石見の海(うみ) 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと(一に云ふ、「磯なしと」) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は(一に云ふ、「磯は」)なくとも 鯨魚(いさな)とり 海辺をさして にきたづの 荒磯(ありそ)の上(うへ)に か青(あを)く生(お)ふる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄らめ 夕(ゆふ)はふる 波こそ来寄(きよ)れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝(ね)し妹(いも)を(一に云ふ、「はしきよし 妹が手本(てもと)を」) 露霜(つゆしも)の 置きてし来(く)れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万度(よろづたび) かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ いや高(たか)に 山も越え来(き)ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲(しの)ふらむ 妹(いも)が門(かど)見む 靡(なび)けこの山
石見の海の 角の海辺を 浦がないと ひとは見るだろうが 潟がないと(または、「磯がないと」) 人は見るだろうが えいままよ 浦はなくても えいままよ 潟は(または、「磯は」)なくても 海辺をめざして にきたづ(江津市あたりの地名か?:「わたづ(渡津)」と読む説もある)の 沖の荒い磯のあたりに 青々と生い茂る 玉のように美しい沖の藻は 朝吹きつける 風が寄せるのであろう 夕方押し寄せる 波に寄って来るのであろう その波といっしょに あちらこちらと寄ってくる 玉藻のように 寄り添って寝た妻を(または、「いとおしい つまのかいなを」) (露霜の) 置いて来たので この道の 曲がり目ごとに 何度も何度も 振り返って見るけれども ますます遠く 里は離れてしまった ますます高く 山も越えて来た。(夏草の)思いしおれて わたしを偲んでいるであろう 妻の家の門口(かどぐち)が見たい 平たくなってくれこの山よ。
反歌二首
132
石見のや 高角山(たかつのやま)の 木の間(このま)より
我(わ)が振る袖(そで)を 妹見つらむか (石見の国の 高角山の 木の間から 私が振る袖を 妻は見たであろうか)
133 笹の葉は み山もさやに さやげども
吾(あれ)は 妹(いも)思(おも)ふ 別れ来(き)ぬれば (笹の葉は 全山目をみはるほどさやさやと 風に吹き乱れ不気味なほどに鳴っているが それでも私は妻のことを思う 別れて来たので)
或本(あるほん)の反歌に曰く 134
石見なる 高角山の 木の間ゆも
吾(あ)が袖振るを 妹見けむかも |
135
つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛の崎(からのさき)なる いくりにそ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒磯(ありそ)にそ 玉藻は生ふる
玉藻なす 靡(なび)き寝(ね)し児(こ)を 深海松の 深めて思(おも)へど さ寝(ね)し夜(よ)は いくだもあらず 延(は)ふつたの 別れし来(く)れば 肝(きも)向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船(おほぶね)の 渡(わたり)の山の 黄葉(もみちば)の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の(一に云ふ、「室上山(むろかみやま)」)の山の 雲間(くもま)より 渡らふ月の 惜しけども 隠(かく)らひ来れば 天伝(あまづた)ふ 入り日さしぬれ ますらをと 思へる吾(あれ)も しきたへの 衣(ころも)の袖は 通りて濡(ぬ)れぬ
(つのさはふ)石見の海の (言さへく)辛の崎にある 暗礁には 深い海の海松(みる)が生えている 荒い磯には 玉のような美しい藻が生えている その玉藻のように 言う通りに横たわって寝た妻を (深海松の)深く思うけれども 一緒に寝た夜は いくらもなく (延ふつたのように)別れて来たので (肝向かふ) 心せつなく 思いつつ 振り返って見るけれども (大船の)渡(わたり)の山の 黄葉(もみじば)が 散り乱れて 妻の袖も はっきりとは見えず (妻隠る) 屋上(やかみ)の山の(または、「室上山の」)雲間を 渡り行く月のように 名残惜しくてならないが その姿が目えなくなったときに (天伝ふ)夕日も落ちて来たので ますらおだと 思っている私も (しきたへの) 衣の袖は 涙で濡れ通ってしまった
反歌二首
136
青駒(あをこま)が 足掻(あが)きを速み 雲居(くもゐ)にそ
妹があたりを 過ぎて来にける (一に云ふ、「あたりは 隠り来にける」) (青駒(灰色の雄馬)の 勇んで前足で地を掻くほどに歩みが速いので はるかに遠く 妻の辺りを 通り過ぎて来てしまった(または、「妻の辺りは 見えなくなってきた」)
137
秋山に 落つる黄葉(もみちば) しましくは
な散りまがひそ 妹があたり見む(一に云ふ、「散りなまがひそ」) ( 秋の山に 散るもみじ葉よ しばらくは 散り乱れてはくれるなよ 妻の辺りを見たいから(または、「散って乱れてくれるなよ」)
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138・・・131長歌の類歌
139・・・132反歌の類歌
140 柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子(よさみのをとめ)、人麻呂と相別るる歌一首
な思ひそと 君は言ふとも 逢はむ時
いつと知りてか 吾(あ)が恋ひざらむ (思うなと あなたがおっしゃっても 今度いつ逢えると わかっていたら こんなにまでも恋しくは思わないでしょう)
この依羅娘子が石見の妻と同一人か否かは議論のある所。挽歌223〜227と関わっている。 【 → その十四・十五参照】
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地名について 当時(7ct末〜8c初め)に石見国の国府がどこに置かれていたか、明確ではない。人麻呂の歌から考えると邇摩郡の仁摩町宅野のあたりではないかと思われ、本文ではその考えに基づいて地名を当てはめてみた。異論は多い。倭名抄(10世紀)では、那賀郡(浜田市国府町)に置かれていたとある。また、国分寺跡も国府町にあるので8ct中期(741勅願)には那賀郡にあったと考えられる。 131 角(つの)・・・江津(ごうつ)市都野津(つのづ)町一帯。これはほぼ定説。 和多津(にきたづ)・・・不明。「わたづ」と読み、江津市渡津(わたづ)とする説もある。135の「渡りの山」と関連させると「わたづ」と読む方がよい。 132 高角山(たかつのやま)・・・「角の地にある高い山」と考えられ、江津市都野津の東にある「島星山」470mが有力な説。 135 辛の崎(からのさき:韓の崎)・・・@邇摩郡仁摩町宅野の「韓島(からしま)」説=当時仁摩に国府があったとする説。 A浜田市国府町「唐鐘浦(とうがねうら)」説=すでに国府が那賀郡に移っていたとする説。 B江津市「大崎鼻」説 渡りの山(わtりのやま)・・・江津市渡津(わたづ)町説がある。=131「和多津(わたづ)」と関連させる。江の川の河口付近で北東から北西へと大きく湾曲するあたりの右岸の山(174m)とする。この山のすぐ上流辺りが江の川の古くからの渡し場であったという。 屋上の山(やかみのやま):[一に云ふ「室上山(むろかみやま)」]・・・江津市浅利の「高仙山」[別名「室神山」]が有力。形がよく「浅利富士」と呼ばれている。「渡津」の「渡りの山」の上流の千金(ちがね)の渡し場を渡り、「屋上の山」の東を廻って北海岸に出たのではないかと思われる。それが山陰道であったろう。 |