万葉の悲劇 その十一 軽の女 |
研究資料 |
柿本人麻呂に妻が幾人いたかはよくわからない。万葉集の注記の「柿本人麻呂歌集」の歌がすべて人麻呂自身の歌か否か、また事実なのか創作なのか、諸説入り乱れて、まだ真実は謎の霧の中にある。万葉集の中にある歌からあえて関連性を見つけて、3人の妻を設定し、それらを少し脚色しながら垣間見てきた。
☆印の歌は、本文に引用した歌である。
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巻第二 柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌 二首 並びに短歌 |
207
☆天(あま)飛ぶや 軽の路(みち)は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど 止(や)まず行(ゆ)かば 人目を多み 数多(あまね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら) 後(のち)も逢はむと 大船(おほぶね)の 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 戀(こ)ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠(くもがく)るごと 沖つ藻の 靡(なび)きし妹(いも)は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言へば 梓弓(あづさゆみ) 声(おと)に聞きて [一に云ふ、「声(おと)のみ聞きて」] 言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 声(おと)のみを 聞きてあり得ねば わが戀(こ)ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 吾妹子(わぎもこ)が 止まず出で見し 軽(かる)の市(いち)に わが立ち聞けば 玉襷(たまたずき) 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声(こゑ)も聞こえず 玉桙(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹(いも)が名喚(よ)びて 袖(そで)そ振りつる [或る本には、「名のみを聞きて あり得ねば」といへる句あり]
( 天飛ぶや)軽の道は、わが愛するひとの住む里であるから、よくよく見たいと思うけれども、いつも行ったら、人目が多いので目につくし、しばしば行ったら、人がきっと知るだろうからうるさいし、(さねかづら)まあまあ後になってでも逢おうと、(大船のように)将来を頼みに思い、(玉かぎる磐垣淵のように)人知れず心の中でだけ、恋しく思い続けていたのに、空を渡る日が 暮れて行くように 照る月が 雲に隠れてしまうように、 靡き寄り添って寝た妻は (もみじが散るように) 亡くなってしまったと (玉梓の)使いの者が来て言うので、 (梓弓)話を聞いて[または「話にだけ聞いて」] 言いようも しようもなくて 報(しらせ)だけを聞いてじっとしておれないので わたしの恋い慕う気持ちの 千分の一だけでも 気が晴れる こともあろうかと わが愛する妻が よく出かけて見ていた 軽の市に たたずんで耳をすますと (玉だすき)畝傍の山に 鳴く鳥のように もうなつかしい人の声も聞こえず (玉ほこの)道行く人も ひとりとして似た人が通らないので しかたなく 妻の名を呼んで 袖を振ってしまったことよ。 [或本には、「うわさだけ 聞いておれないので」という句がある]
短歌二首
208
秋山の 黄葉(もみち)を繁(しげ)み 惑(まと)ひぬる
妹(いも)を求めむ 山道(やまぢ)しらずも [一に云ふ、「路(みち)知らずして] 秋の山の もみぢがあまり多く繁っているので 迷い込んでしまった恋しい妻を捜し求める その山道もわからないことよ。
[或本 「道がわからなくて」] 209
黄葉(もみちば)の 散り行(ゆ)くなへに 玉梓(たまずさ)の
使ひを見れば 逢ひし日思(おも)ほゆ もみじが 散って行く折に (玉ほこの) 使いの者がやって来るのを見ると ああこのようにして頼りが来て妻と逢ったのだったと、その日のことが思い出されることだ。
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巻第四 柿本朝臣人麻呂が歌 四首 |
この4首は、持統天皇の紀伊行幸[持統四(690)年]に従って行ったときの歌と考えられる。前の2首が男の歌、後の2首が女の歌で、贈答歌になっている。 |
496
☆み熊野の 浦の浜木綿(はまゆふ) 百重(ももへ)なす
心は思(も)へど 直(ただ)に逢はねかも (紀州熊野の 海岸の浜木綿のように 百重にも 心では思っているが じかには逢えないものだね。)
497
古(いにしへ)に ありけむ人も 我(あ)がごとか
妹(いも)に恋ひつつ 寝(い)ねかてずけむ (昔に 生きていた人も わたしと同じように 妻を恋い慕って 眠れなかっただろうか。)
498
今のみの わざにはあらず 古(いにしへ)の
人そまさりて 音(ね)にさへ泣きし (今の世だけの ことではありませんよ。 昔の人こそもっと 恋の苦しさに声を放って泣きさえしたのです)
499
☆百重(ももへ)にも 来(き)しかぬかもと 思へかも
君が使ひの 見れど飽かざらむ (何度でも きてくれればよいと、思うせいでしょうか。 あなたの使いの者がくるのを いくら見ても飽きることがありませんよ。)
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巻第二 伊勢国(いせのくに)に幸(みゆき)せる時に、京(みやこ)に留(とど)まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 |
持統天皇の伊勢行幸は692(持統六)年で、「京」はまだ旧京の飛鳥浄御原宮の地である。藤原遷都は、この2年後の694年12月である。 |
40
☆あみの浦に 船乗(ふなの)りすらむ 娘子(をとめ)らが
玉裳(たまも)の裾(すそ)に 潮(しほ)満つらむか
(あみの浦で 船遊びをしているであろう 乙女たちの 玉のように美しい裳(スカート)の裾に 潮が満ちていることだろうか)
41
釧(くしろ)つく 答志(たふし)の崎に 今日(けふ)もかも
大宮人(おほみやびと)の 玉藻(たまも)刈るらむ (釧つく)(答志島の岬で 今日もなお 官女たちは 玉のように美しい藻を刈って楽しんでいることだろうか。)
42
☆潮騒(しほさゐ)に 伊良湖(いらご)の島辺(しまべ) 漕ぐ船に
妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を (潮騒のなかで 伊良湖の島辺を 漕ぐ船に 彼女も乗っていることだろうか 荒い島の周りを)
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巻第九 紀伊国(きいのくに)にして作る歌 四首 (左注に、「柿本朝臣人麻呂歌集に出づ」とある) |
この紀州の旅がいつのものか明確ではないが、巻二146の結び松の歌と同じなら、大宝元(701)年9月文武天皇行幸に随行した時のものとなる。11年前に紀州の地で知り合い、軽の地で亡くなった妻への挽歌であると思われる。 |
1796
黄葉(もみちば)の 過ぎにし児(こ)らと 携(たづさ)はり
遊びし磯(いそ)を 見れば悲しも (もみじが散るように 亡くなってしまった妻と かつて手をつないで 遊んだ磯を見ると悲しい。)
1797
塩気(しほけ)立つ 荒磯(ありそ)にはあれど 行く水の
過ぎにし妹(いも)が 形見(かたみ)とそ来(こ)し (潮の香りがする 荒い磯ではあるが、 (行く水の)亡くなった妻の 形見と思ってやって来たのだ)
1798
古(いにしへ)に 妹(いも)と我(わ)が見し ねばたまの
黒牛潟(くろうしがた)を 見ればさぶしも (その昔 妻とわたしが見た (ぬばたまの)黒牛潟を 見ると淋(さび)しくなるよ)
1799
玉津島(たまづしま) 磯の浦廻(うらみ)の 砂(まなご)にも
にほひて行(ゆ)かな 妹(いも)も触(ふ)れけむ (玉津島の 磯の浦辺の 細かな砂にも 触れて白く染まって行こう 妻も触れたことだろうから)
その九「紀州の地図」 参照
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