百人一首夜話 |
○百人一首の歌を分類すると、百首の歌のうち、何といっても恋の歌が圧倒的に多く43首、次いで秋の歌が17首、合わせて60首を占めます。
いかにも編集者藤原定家の好みがよく現れています。但し、この時、定家は74歳のおじいさんでしたが・・・。
定家は歌の中に、「はなやかさの中のしみじみとしたあわれさ」を求めました。これを「妖艶」と呼びます。これは一種の官能美です。この妖艶の美が百人一首の特色なのです。
○ところが、この百人一首は、鎌倉時代に編集されて百年あまりは、人々にまったく知られなかったのですから不思議です。 14世紀の後半(室町時代の中期)に、宗祗(そうぎ)という連歌師によって研究・紹介されて、歌よみの人々にようやく読まれるようになりました。
そして、やがて江戸時代になると、歌の手本として、また古典の入門書として、さらには手習いの書として用いられるようになりました。そして、台頭してきた庶民の間にもどんどん広がっていったのです。
○江戸時代も中期になると、「かるた」という遊びと結びつき、さらに庶民の間に「教養」として根を張っていきました。 やがて、「歌がるた」と言えば「百人一首」を、「百人一首」と言えば「歌がるた」を指すようになりました。老いも若きも、男も女も、誰でも参加できる最も家庭的な正月の遊びとなっていったのです。
○その盛況ぶりが、当時の「川柳」に多く読み込まれています。 ☆百人を五六人して追ひまはし
これは「ばらとり戦」で、取り札百枚をまき散らして取るもので、最も一般的な遊びです。百人一種の29番の歌「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)をもじって、
「心あてに取らばや取らむ初霜のおきまどはせる白菊の札」と洒落て、この「ばらとり」の方法を「おきまど」とも呼ぶようになりました。
○江戸時代には、「歌がるた」は、「女の遊び」とも言えるくらい、女性が多く親しんでいたらしい。男は妙齢のすてきな女性がいると、 ☆歌がるた女の中へ負けに出る
ということになります。今でもトランプなどで、心惹かれる女の子のためにわざと負けてやる男の子が、必ず一人や二人いるものです。
○さらに女性の中でも、特に「嫁さん」が歌がるたが上手とされていました。 ☆きりぎりす鳴くよりはやく嫁は取り
言うまでもなく、「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かた敷き一人かも寝む」(藤原良経)を踏まえています。
さらに、次のような句もあります。
☆花嫁の手際(てぎは)秋の田苅るごとし
「秋の田の苅り穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)を踏まえ、バッサバッサと稲を刈るように、しとやかさを装っていた花嫁が札をみな取ってしまうのです。
そのように嫁にばかりに取られては、姑(しゅうとめ)の方では面子(めんつ)が立たない。何としても嫁に負けたくないものだから、
☆読み切らぬうちに取るなと姑言ひ
下の句まで全部読み終わるまで、取ってはならぬと珍命令を出します。それでも嫁に負けて腹を立てた姑は、もう「歌がるた」があるから悪いんだと八つ当たり。
☆歌がるた姑(しゅうとめ)隠して火にくべる
ここまでくるともう嫁姑の問題になり大変ですが、とにかく、江戸の人々、特に女性たちはこの百人一首が好きで、
☆歌がるた子(ね)の刻までが限りなり(「子の刻」というのは、夜中12時頃と考えたらよろしいでしょう。)
ということで、十二時にはやめようということになっていたらしいのですが、それでも、
☆鶏(にはとり)の啼(な)くまでばかな歌がるた
などと、とうとう朝鶏(あさどり)の鳴くまで、徹夜したという連中までも現れました。修学旅行でナポレオンを徹夜でやったという高校生諸君とあまり変わりないかもしれません。
○一方で、百人一首のパロディー(原典をユーモラスにもじったもの) も多く生まれました。特に狂歌師の蜀山人(しょくさんじん・四方赤良よものあから)は有名で、 ☆ほととぎす 鳴きつるあとに あきれたる 後徳大寺の
有明けの顔
などは、傑作中の傑作と言われています。もちろん、後徳大寺藤原実定の一字決まりの歌、
「ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる」をもじったものです。
○当時はまた、「むべ山」という、百人一首を使った賭博も行われていたようです。「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」(文屋康秀)の札を出すと銭(ぜに)が取れるというもののようです。これも正月にやったらしい。 ☆むべ山の中へ嵐(荒らし)の年始客
○江戸時代は正月の「遊戯=おあそび」として定着していった「歌がるた」ですが、明治になると、黒岩涙香(るいこう)という新聞記者が主催して、自分で作った新聞「万朝報(よろずちょうほう)」に広告を載せて、百人一首の歌がるたの「競技会」を開きました。それに刺激されて、各地に「小倉(おぐら)会」だの「村雨(むらさめ)会」だのという百人一首の「競技団体」が出来ていきました。明治時代中期のことです。明治26(1893)年には、現在のような活字の「標準かるた」ができました。これはもともと競技の公平さを期すために作られたものです。 ○こうして、多くの青年男女の交流の機会としても利用され、有名な「金色夜叉」(明治30年・尾崎紅葉)の冒頭の場面のようなこともあったわけです。金持ちの富山がダイヤモンドをちらつかせながら、若い男女のかるた会に嫁さんさがしにやって来て、間(はざま)貫一の許(い)いなづけの、美しいお宮さんを見染めるという、あの場面です。夏目漱石「こころ」にもかるた取りの場面が出てきますね。 ○その外、古典落語にも若い男女の恋わずらいを扱った「崇徳院(すとくいん)」(瀬をはやみの歌)や、とんちんかんな解釈をする「ちはやぶる」(在原業平)などがあります。 ○しかし、明治の、そのように多くの人々に広がる「百人一首」を快(こころよ)からず思っていた人々もいました。その先鋒が正岡子規で、彼が明治31(1898)年「歌よみに与ふる書」という書物を著しました。その中で、百人一首に出てくる歌をこっぴどく批判しています。 ☆人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之)
「『人はいさ心もしらず』とは浅はかなる言ひざまと存候(ぞんじそうろう)」
☆心あてに折らばやをらむ初霜のおきまどはせる白菊の花
「初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気づがひ無之(これなく)候」、そんな、人を欺くようなうそをつくなと言いたいのでしょう。
万葉期の写実を理想とする、短歌の革新運動を進める子規にとっては、当然の主張でもあったのでしょう。この子規の考え方がアララギ派の流行とともに、明治末から大正・昭和の初めにかけて、歌詠む人たちに大きく影響し、ついには、歌人の中には、百人一首など知らないし読んだこともないと公言して憚らない人までも出るしまつでした。
○このような風潮を嘆いた萩原朔太郎という詩人(日本の象徴詩を完成させた人ですが・・)は、 「小倉百人一首が解らなければ、歌の美、つまり芸術の美もわからない」(昭和8年)と説いています。
○現在では、百人一首が古典入門として、多くの中学・高校で用いられるようになり、競技としても一種のブームと言えるくらいに、各地で「歌がるた」が催されています。高校生諸君は、この「百人一首歌がるた」の中味が「新古今調」の歌であることをよく認識したうえで、楽しんでいただきたいと思います。 ○ここで、百人一首の歌の一つをとり出して、鑑賞してみたいと思います。 先ほど述べました百人一首のパロディー、蜀山人の狂歌に、
「ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔」というのがありましたが、この歌のもとは、みなさんご存知の、
81 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
です。この歌は、実にほととぎす(時鳥)の習性をよくとらえた歌です。
時鳥が鳴いた。そこでその方向を見る。当然時鳥は飛んでいたはずです。ところが振り向くと意外や意外。そこには時鳥の姿はすでになく、ただ有明の月が残っているだけ。夏の夜明けの風が冷たく頬をなでる。その感触までも伝わってくるようです。
○私は若い頃から山を歩くのが好きで、ある夏、友人とわざわざ時鳥の声を聴くために、広島県と山口県の県境の山でキャンプをしたことがありました。千メートルくらいの山でしたが、時鳥が予想通り日中から夕暮れまで騒々しいほどに鳴き続けました。さらに、夜明け前からその甲高い声があたりの静けさを破りました。テッペンカケタカと鳴く、あの騒々しいほどの甲高い声は今も耳について離れませんが、鳴いた後すぐにその方向を見ても、もう姿が見えない。すると今度はあらぬ方から聞こえてくるというぐあいです。「あきれたる」顔で空(くう)を見つめることになるのです。姿を見たのは日没前です。谷を越えて向かいの山に飛んで行く姿でした。夕日を受けて赤く染まりながら消えていきました。 ○この、後徳大寺実定の「ほととぎす」の歌は、詞書(ことばがき)に「暁に郭公(ほととぎす)を聞くといへる心を詠み侍りける」とあり、題を与えられて詠んだ「題詠」の歌です。従って、本当は実際にその時に見に出かけたわけではないでしょう。しかし、この歌を詠んだ後徳大寺実定が、というよりも、当時の人々がいかに自然の真の姿をよく観察し知っていたか。自分の体験から、思い知らされました。 【1979(昭和54)年1月舟入高校にて講話】
|