万葉の悲劇 その六 友情 |
荒尾の航路 |
志 賀 島 慕 情
能古島(のこのしま)は博多湾に浮かぶ小島です。どこから見ても台形に見える島です。「火宅の人」の檀一雄が晩年を送った島でも有名です。今は、自然公園となり福岡市民の憩いの場として賑わっています。島の北側に大きなお花畑があり、春は菜の花、秋はコスモスが咲き乱れます。 そのお花畑のそばに古代の狼煙台(のろしだい)が再現されています。この島は、その昔、防人(さきもり)が警備する北の砦だったのです。湾内への侵入者があれば、狼煙を上げて筑紫の館(むろつみ)に知らせ、すばやく太宰府へ伝えたのです。
そのお花畑から北西に眼をやると、海上に樹木のこんもりと茂った山が見えます。それが志賀島(しかのしま)です。金印の出た島として知られ、観光客の絶えない島ですが、万葉集の悲しい友情の伝説は、今も心打たれます。
この北九州一帯は、古代日本の海の民の舞台です。その中でも、宗像(むなかた)神社を中心とした宗像氏と、志賀島を中心とした安曇(あずみ)氏が勢力を誇っていました。この「志賀の白水郎(あま)の歌」に登場する年老いた宗形部の津麻呂は宗像氏であり、主人公志賀の荒尾は当然安曇氏ということになります。
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能古島展望台より志賀島遠望 |
万葉集の注記(左注)には、荒尾が対馬に渡る時、「肥前国美祢良久 (みねらく)の崎」から船出したとあります。「美祢良久」とは、五島列島(古くは、値嘉島)の福江島の三井楽町にある岬に当てられています。ここは、遣唐使船が東シナ海に乗り出す日本最後の地でした。しかし、対馬に渡るには、どう考えても遠回りになり、地理的にはとても変です。これは万葉集の編集者が当時平城の都から想像して、遣唐使船の出発地を当てたと考えられています。「みねらく」は平安時代になると「みみらく」と呼ばれるようになったようです。
わが友、原田敦子氏は、この「みみらく」こそ海の民・安曇氏の大切な伝承の地であるとされました。(「古代伝承と王朝文学」和泉書院版)。
「筑前国風土記」の記事から、安曇氏にとって値嘉島(五島列島)は祖先の栄誉の地であり、その「みみらくの崎」も遣唐使船の水手(かこ)として大海への渡海点と意識され、さらには、海上他界観や舟葬の習俗とからんでいるそうです。最後に、「海での死をおそれる意識と、実際に海で愛する人を喪った数々の記憶を重ね合わせて、我が国の西の果てなる、そして大海への渡海点であると同時に、時として死への渡海点ともなったみみらくの崎の彼方に、死者に逢える島の幻想を生んでいったのではないか。」と述べられています。 |
ここまで考えてくると、安曇氏である荒尾の妻が夫に逢えることを夢見るとき、そこに「みねらくの崎」を意識したとすれば、万葉集の注記もあながち誤りではないような気がしてきました。
志賀島に渡り、金印公園の観光客の喧噪をよそに、今も北の岬に立つと、静かで、潮騒のみが岸を洗っています。
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