万葉の悲劇  その十六  終焉
研究資料
 
      万葉集最後の歌  
 巻二十 (天平宝治)三(759)年春正月一日に、因幡国の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
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   新(あらた)しき 年の初めの 初春(はつはる)の
              今日(けふ)降る雪の いやしけ吉事(よごと)
(あたらしい 年の初めの 正月の 今日降る雪のように もっと積もれ良い事) 
 右の一首、守(かみ)大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)作る。
      一族の結束を訴える歌
  巻二十 族(やから・うがら)を喩(さと)す歌一首 并(あは)せて短歌
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ひさかたの 天(あま)の門(と)開き 高千穂(たかちほ)の 岳(たけ)に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代(みよ)より はじ弓を 手握(たにぎ)り持たし 真鹿児矢(まかごや)を 手挟(たばさ)み添へて 大久米(おおくめ)の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負(お)ほせ 山川(やまがは)を 岩根さくみて 踏み通り 国求(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向(ことむ)け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へ奉(まつ)りて あきづ島 大和の国の 橿原(かしはら)の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱(みやばしら) 太知(ふとし)り立てて 天(あめ)の下 知らしめける 天皇(すめろき)の 天(あま)の日継(ひつぎ)と 継ぎて来る 君の御代御代(みよみよ) 隠(かく)さはぬ 明(あか)き心を 皇辺(すめらへ)に 極(きはめ)尽くして 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と 言立(ことだ)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り次(つぎ)てて 聞く人の 鑑(かがみ)にせむを あたらしき 清きその名を おぼろかに 心思ひて 空言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏(うぢ)と名に負へる ますらをの伴(とも)
 
 「(ひさかたの)天の岩戸を開き 高千穂の岳に天降られた 天孫の 神の昔から ハジの木で作った弓を 手に取り持ち 真鹿児矢(まかごや)をいっぱい脇に挟んで (大久米主と呼ばれた遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)や天櫛津大久米(あめくしつのおおくめ)たち)大久米の 勇者たちを 先導として 矢を入れた靫(ゆき)を背負わせ 山や川を 岩を押しわけて 踏み通り 安住の国を探し求めながら 荒れ狂う 悪い神を宣撫し従わせ 服従しない 人々をも鎮め 掃討し鎮撫して お仕え申して (あきづ島)大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱を しっかりと立て 天下をお治めになった 皇祖の 神の御末(みすえ)と 伝え来た 天皇の代々 赤裸々な 曇りない誠を 大君のもとに 捧げ尽くして 仕えて来た 先祖代々からの職務であるぞ」と 明言して お授けいただいた 大伴家の子孫たちが 代々(その光栄を)言い伝え 見る人が ほめて語り 聞く人の手本にしようけれども 名誉ある 清いその名を いい加減に 軽く考えて かりそめにも 先祖の名を絶やすな 大伴の氏を名に持つ 男たちよ 
 
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   敷島(しきしま)の 大和の国に 明らけき 
          名に負ふ伴
(とも)の緒(を) 心努めよ 
(しきしまの)(大和の国に 隠れもない 名誉ある名を持つ大伴の一族よ 怠りあるな)
 
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   剣太刀(つるぎたち) いよよ研ぐべし 古(いにしへ)
           さやけく負ひて 来(き)にしその名そ
(剣太刀のように)(いっそう研ぎ澄まさねばならない 昔から 清く負い持って 来たその名であるぞ
 
 右、淡海真人御船(あふみのまひとみふね)の讒言(ざんげん)によりて、出雲守(いづものかみ)大伴古慈悲(こじひ)宿禰、任を解かる。ここを以(も)って家持この歌を作る。
 
 【注:この事件の真相は不明な点が多い。続日本紀(しょくにほんぎ)には、天平勝宝八歳(756年)5月10日大伴古慈悲と淡海三船とが朝廷を誹謗した罪で禁固されたが三日後に放免されたとある。さらに、古慈悲の薨伝には古慈悲が藤原仲麻呂に誣告され左遷されたとある。ただ、万葉集のこの注からは、三船の讒言にあったことを家持は信じていたことがわかる。また、兵部少輔となっていた家持の、一族の結束を訴え訓諭しようという、氏の長者としての強い自覚ともどかしさとが読みとれる。】
 
     死後にも悲劇
かし、この一年後の天平宝字元(757)7月には橘奈良麻呂の変が起こり、一族の多くが加わり、捕縛された。さらに、天平宝字六(762)因幡から信部大輔(しんぶたいふ)として帰京した翌年、天平宝字七(763)年9月藤原仲麻呂(恵美押勝えみのおしかつ)暗殺計画に関与したと家持自身が疑われ、薩摩守に左遷された。藤原仲麻呂失脚後復職し、宝亀十一(780)2月63歳でやっと参議にまで昇進し、やがて春宮(とうぐう)大夫となったが、延暦元(782)年閏(うるう)正月氷上川継の謀反に連座して解任。この時はすぐに復職し、延暦3(784)年持節征東(じせつとう)将軍となり、陸奥多賀城(たがじょう)に赴いたが、翌延暦4(785)年8月28日その多賀城で没した。享年68歳
 
  ところが、没して26日後、9月23日中納言藤原種継が暗殺され、その計画の謀者であったとして、官位も職も一切を除名剥奪された。名誉が回復したのは、なんと21年後、延暦25(806)年3月17日で、時代はすでに平安になっていた。

                                                                             因幡国府地図