〜序〜
悲劇と聞くと、すぐにシェイクスピアの四大悲劇を想いうかべる人も多い。思索と懐疑のはざまで、復讐の決断に迷う王子ハムレットの苦悩や、
部下の奸計(かんけい)によって妻の貞操を疑うオセロ将軍の苦悶は、四百年を経た今も、人々の心に強く迫ってやまない。
日本にも悲劇はあった。というより日本の古典劇の多くが悲劇であた。むしろ日本は悲劇の王国と言えるかもしれない。 近松門左衛門の書いた「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」をはじめとする心中物(しんじゅうもの)の悲劇は、
上方(かみがた)や江戸の町人たちの心をつかんで離さなかった。
太平洋戦争に敗れ、混乱の中で貧困とたたかいながらも、人々は悲しい映画に夢中になった。
「お涙ちょうだい」と呼ばれ、「ハンカチ十枚ご用意下さい」などと宣伝された「母もの映画」に、注文通り観客は泣いた。 本来、日本の風土には悲劇性があるように思う。
万葉集にも悲劇は多い。歌は心情の高まりの頂点を描くものであるが、その言外には、海面下の氷山のように、人の生活の物語が隠されている。 万葉の悲劇の代表は、やはり大津皇子(おおつのみこ)であろう。天武天皇の子として華やかな生活を送りながら、謀反(むほん)の罪で刑場の露と消えた。
同じく死罪になった有馬皇子(ありまのみこ)、妹と恋に陥り流刑(るけい)された軽太子(かるのひつぎのみこ)、 そして、九州から京に上る途中、広島県佐伯郡で客死した大伴熊凝(おおとものくまごり)など、悲劇性においてはいずれも劣らない。
挽歌(ばんか)・防人歌(さきもりのうた)を含め、これら膨大な万葉の悲劇の山に、深く分け入ってみたいと思う。
(一九八五年10月14日「桐一葉」創刊号より 川野正博「万葉の悲劇 序文 )
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