万葉集巻第十六

 

志賀の白水郎(しかのあま)の歌


 「延喜式」主税上・雑式によると、筑紫六国は、対馬の島民と防人のために、毎年二千石の米を交替で運送することになっていた。

 「三代実録」貞観十八(八七六)年三月九日の条によると、

船員百六十五人が当てられている。さらに、五、六回に三、四回は漂着したとある。
 万葉集巻第十六には、十首の歌と左注がある。左注には、事情がかなり詳しく述べられているが、問題点も多く、論議が多彩である。歌の配列についても諸説あり、作者も、憶良の創作説・民謡説・その折衷説など諸説入り乱れている。しかし、だから想像を呼び、おもしろいのである。
        
   
   筑前国志賀の白水郎の歌 十首

  
 @  3860

 大君の 遣(つか)はさなくに さかしらに 
    
(ゆ)きし荒雄(あらお)ら 沖に袖振る

(大君の命(めい)で派遣されたのでもないのに、自分からさしでて出かけていった夫の荒雄が、沖で袖をふっているよ。)
 
  天皇の命令でもないのに、自分からでしゃばって出かけた夫を責める妻の詰問。
「沖に袖振る」には、船出のとき妻子に手を振る夫を、島から見送った気持ちとともに、溺れながら妻子を呼ぶ断末魔の姿が重なり合っている。


  A  3861

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて
      門に出で立ち 待てど来まさず

  B  3862

 志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが 
     よすかの山と 見つつ偲ばむ

(志賀の山の木を、あまり伐ってくださるな。荒雄の縁のある山として、見ながら夫のことを偲(しの)ぼうとおもいますので。)

 形が変わるほど木を伐らないでくれと訴えている。志賀島は山の島である。とはいっても、最高部の潮見公園でも166m。カシやマテバシイに覆われている。

   C 
3863

 荒雄らが 行きにし日より 志賀の海人(あま) 
     
大浦田沼(おほうらたぬ)は さぶしくもあるか
(あの人が行ってしまった日から、志賀の漁師のいる大浦田沼は何とさびしいことか。)
 大浦田沼は荒尾の家族の住所であろう。現在、島の北部勝馬(かつま)に大浦の地名が残り、以前は山間の泥田の地であったという。勝馬には国民休暇村がある。

   D  3864

(つかさ)こそ さしてもやらめ さかしらに 
    行きし荒雄ら 波に袖振る

 3860と同じ発想の歌である。溺れながら妻子を呼ぶ断末魔の姿である。しかし、同時に彼方の海の中で生きていて手を振っている姿をも連想できないか。左注にある美祢良久(みねらく)の崎から船出でしたことと合わせて、海人たちの死者に会える再生思想があるのかもしれない。

   E 
3865

 荒雄らは 妻子(めこ)の産業(なり)をば 思はずろ 
     
年の八歳(やとせ)を 待てど来まさぬ
(あの人は私たち妻子の生業のことは考えないんだよ。長い年月を待っていても帰っていらっしゃらないもの。)
 「八歳」は長い年月を表す。実数ではない。長く消息もなく棄ておかれたことを詰問している。
 
   
F 
3866

沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来(こ) 
    
也良(やら)の崎守 早く告げこそ
 「沖つ鳥」は「鴨」の枕詞。防人とその地の民衆との関わりが推測できる歌。能古島にはいま狼煙(のろし)台が再現されている。

 この歌は、南岸の娜の大津からの位置で詠んだ歌であろう。

   G 
3867

 沖つ鳥 鴨とふ船は 也良(やら)の崎 
     
(た)みて漕ぎ来(く)と  聞え来(こ)ぬかも

([沖の水鳥の]鴨という名の船は、能古島の也良の崎を廻って漕いで来ると聞こえてはこないよ。)
 ここには、もう絶望感がただよっている。


   H  3868

 沖行くや 赤ら小船(おぶね)に つと遣(や)らば 
     
けだし人見て ひらき見むかも

(沖を行くあの赤い丹塗(にぬ)りの官船の小船に、包みをことづけてやったら、もしや夫が包みを開いて見はしないか。)
 沖の彼方、海の底に生き続ける夫の姿を思う。


    I  3869

 大船に 小船(おぶね)引き副(そ)へ 潜(かづ)くとも 
     
志賀の荒雄に 潜(かづ)きあはめやも

(大船に小船を引き連れて海に漕ぎだし、海に潜(もぐ)って捜そうとも、志賀の荒雄に海中で逢うことができようか、いやできはしない。)
 ここには、もはや現世の人の及ばない海の彼方の国に旅立っていった夫への、諦めがある。 


【 左注 】

 右、神亀(じんき)年中に、大宰府筑前国宗像郡(むなかたのこほり)の百姓、宗形部(むなかたべ)津麻呂を差して、対馬送粮(そうりやう)の船の柁師(かじとり)に宛(あ)つ。ここに津麻呂、滓屋郡(かすやのこほり)志賀村(しかのむら)の白水郎(あま)荒雄が許(もと)に詣(いた)り語りて曰く、 僕(やつかれ)小事(せうじ)有り、若疑(けだし)許さじか」といふ。荒雄答へて曰く、「走(われ) 郡(こほり)を異にすれども、船を同じくすること久し。志(こころ)は兄弟より篤く、殉死(じゆんし)することありとも、豈(あに)復(また)辞(いな)びめや」といふ。津麻呂曰く、「府の官(つかさ)、僕(やつかれ)を差して対馬送粮の船の柁師に宛てたれど、容歯(ようし)衰老(すいらう)し、海路(うみつぢ)に堪(あ)へえず。故(ことさら)に来たり祇候(しこう)す、願はくは相替(あひかは)らむことを垂れよ」といふ。ここに荒雄、許諾(ゆる)し、遂にその事に従ふ。

 肥前国(ひのみちのくち)の松浦県(まつらのあがた)美祢良久(みねらく)の崎(さき)より船を発(い)だし、ただに対馬をさして海を渡る。発時(そのとき)忽ちに天暗冥(くら)く、暴風は雨を交へ、竟(つひ)に順風なく、海中に沈み没(い)りぬ。これにより、妻子(めこ)ども犢慕(とくぼ)に勝(あ)へずして、この歌を裁作(つく)る。或(ある)は云はく、筑前国守(ちくぜんのくにのかみ)山上憶良(やまのうへのおくら)臣(おみ)、妻子(めこ)が傷(かなじび)に悲感(ひかん)し、志(こころ)を述べてこの歌を作る、といふ。


☆注:神亀=724〜729年。憶良は神亀3年頃筑前守として赴任してきた。

 宗像郡
=北九州市と福岡市のほぼ中間にあり、宗像大社を中心に、古代には海人(あま)の一族・宗像氏が勢力を誇り水産・海上輸送等に従事していた。

 志賀村
=福岡市東区志賀島。福岡港から約10kmきた。今は橋で本土とつながっている。金印の出た島として有名。古代は同じく海人の一族・安曇氏が島の南側山麓の志賀海神社を中心に勢力を持っていた。

 
美祢良久(みねらく)の崎(さき)=五島列島の福江島の西北部の三井楽(みいらく)町の岬「柏崎(かしわざき)を指すという説が一般的。ここは、古代遣唐使船の出帆の地であった。のちには「みみらく」と呼ばれ、蜻蛉日記などに死者に会える島としても登場。

 
しかし、荒雄が、対馬を指して出帆するには、大回りになり地理的におかしい。これも当時の一ルートであったととる説、編集者が現地のことはわからず、遣唐船の出発地を意識して書いたという説などがある。
  さらにのちの「みみらく」のように死者にあえる再生の島を夢見るという海人(あま)の思想が投影していると考えるのもおもしろい。

      
  以上の注について、さらに次ペ−ジ「荒雄の航路」 参照