敏馬神社の修復完成
 
 
  灘(なだ)にある敏馬(みぬめ)神社は、8世紀頃から栄えた風待ちの港「敏馬(みぬめ)の浦」の背後の丘の森に建つ社(やしろ)です。敏馬の浦は、丘の森に抱かれるように東側(あるいは南側)に開けた美しい白浜の港で、丘の先端は「敏馬の崎」と呼ばれていました。ここは、難波の港から船出して最初に泊まる港。逆に大和へ帰るときは最後に泊まる港であって、数多くの船が寄港したことでしょう。当時は生駒の山塊が遙か東に見え、往くも帰るも、都を偲ぶよすがとなっていたにちがいありません。
  丘の上に建てられた敏馬神社は、今は「素盞鳴命(すさのおのみこと)以下3神を祭神としていますが、摂津国風土記逸文などによると、神功皇后が造船の材木を伐り出す山の女神「美奴売(みぬめ)」を祀ったとあり、ここから、航海の神と考えられて、船旅の人々の信仰を呼んだと思われます。菟原処女(うないおとめ)の伝説も、この船旅の人々によって人口に膾炙(かいしゃ)していったのです。それが、万葉集の悲劇として読み継がれていきました。
  時が移って、近代になると、敏馬の浦は埋め立てられて住宅が建ち、航路は国道2号線に変わり、船の代わりに自動車が往来するようになりました。敏馬神社は、都会の喧騒の中にぽつんと取り残されたのです。
  しかし、1995年1月17日未明に突如、阪神淡路大震災が襲いました。神戸の街とともに、敏馬神社の建造物も崩壊しました。本殿・幣殿をはじめ、石の大鳥居や灯籠(常夜灯)などもことごとく倒壊し、辛うじて拝殿は倒れなかったものの大きな被害を受けました。
  ところが、千数百年の間続いていた日本の心に宿る熱き思いが燃え始め、神社の宮司さんを中心に、氏子をはじめ全国の方々が心を寄せて、震災の年12月には拝殿が修復され、その一年後には本殿が、3年後には灯籠が修復され、6年後には大鳥居が立ち上がり、ついに8年後の今年すべてが再建されました。万葉集を愛する人たちにとって、ふたたび万葉のよすがとなる敏馬の森が甦ったことは実にうれしいかぎりです。修復再建には神職や氏子の方々のなみなみならぬご努力があったことは言うまでもありません。ただただ感謝感謝です。
  震災2年後に敏馬神社を訪ねたときの拙文「敏馬の浦無惨」がありますので、次に載せて、修復再建をこころよりお慶び申し上げたいと思います。
                          (2003.7.4 川野正博 記)

敏馬神社MAP        万葉時代の地形MAP

敏馬の浦無惨



修復再建された敏馬神社の俯瞰
神社より戴いた写真です。
大鳥居の前に国道と阪神高速道路が走っています。

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