帯状疱疹の痛み ~ 孫悟空のきんこじ と ひょっとこのお面 ~ |
1 針のむしろ カトレヤの植え替えは二月から始まる。小さな温室の中でせっせと植え替えの最中に、どういう訳か温室の暖房用石油ストーブが止まってしまった。ここ広島では四月までは暖めないといけないので、必死に修理した。狭い空間に首を突っ込み修理を終えた。 次の日の朝、左の頸部に痛みを覚えたが、寝違えかと軽く考えていた。ところがその翌朝、左の側頭部に針を刺されたような痛みで目覚めた。その針は左側の頭部全体に広がっていく。たまらず近所の主治医に駆け込み診てもらうと、帯状疱疹と診断され、早速に抗ウイルスの散剤と鎮痛消炎の錠剤とさらに患部への塗り薬をいただいた。左頭部に水疱が発疹し、頭が針のむしろに置かれたような痛さである。しかし、3日目ごろから痛みが軽減し、水疱の広がりも止まった。薬を服用後5日目には水疱も枯れはじめ、鈍痛のみで針の痛さは徐々に退却した。ただ、左頭部は押さえると鈍痛があるので、寝る時は右側を下にするしかなく、寝返りをうてず一日4時間程度の眠り。不眠が続くことになった。 2 孫悟空のきんこじ(緊箍児) 一週間目に、妻の永年勤続表彰があるとのことで、横浜に付いて行った。実は抗ウイルス剤は一週間しか飲めなかった。それ以上は禁じられているとのこと。今後は鎮痛消炎剤と塗り薬のみである。 翌朝、二人の念願だったスカイツリーに昇った。押上駅からソラマチを抜けてエレベーターに乗る。速い。あっというまもなく350Mの展望台に到着。明るい東京の街が春の霞に縁取られて天空の城のように浮き上がっている。富士は見えないが、観光客みんながはしゃいでいる。さらに上のスカイウォ-クに昇る。窓側の手摺りの人々の流れに沿って、北から西へとスロープをゆっくりと昇って行く。眼下の隅田川から東京都庁へと視線を流して行く。感動しながら南側に回ってきた時である。強烈な光が左目に飛び込んで来た。 とたんに、頭が締め付けられ、錐で突き刺すような痛み。失神しそうになる。耐えられなくて、その場にうずくまる。人の列の反対側の壁に寄り掛かりうずくまって頭を抱える。妻が慌てて持っていたスポーツ飲料を口に含ませくれた。何度か飲み込むと、不思議に次第に痛みが治まってきた。頭を抱えた当初は、血管が切れたかと思ったが、次第に周囲が見えてきたので、脳内の故障ではないと判断した。そこへ係の方が優しく休憩所へ案内してくださり、気持ちが落ち着いてきた。ハンサムな青年だった。 あれは孫悟空の緊箍児(きんこじ)のごとき痛さだ。観音様の怒りに触れてのたうつ孫悟空が、今の自分だ。私も天の怒りに触れたに違いない。心の戒めが足りなかったのだ。急に孫悟空がいとおしくなり親しみを覚えた。 春の光を浴びた荒川が眼下に横たわっている。するとここは東側か。あのくねくねと延びているのが中川。霞の際に見える丘が国府台、とその右下が手児奈の真間の里か。その反対側が松戸の渡しで、あのあたりが寅さんの柴又だ、などと眺めているうちに、錐の痛みはほぼ治まった。ただ、鈍痛は残り、時々針で刺されるが、我慢できる痛さだ。眼下を觔斗雲(きんとうん)のような雲が流れていった。 3 ひょっとこのお面 薬は鎮痛消炎剤と塗り薬のみ。その後二度、あの孫悟空の緊箍児の痛さに襲われたが、水をすぐに飲んで治めることができた。水が特効薬だ。さらに、不眠が続かないよう睡眠導入剤を服用することになった。もう大丈夫。あとは水疱が枯れて傷が治まれば万事解決、と思っていた。 ところがである。三週目に入ってまもなくの朝、顔を洗おうとして驚いた。鏡の中に、眉が下がり左眼が垂れ口がゆがんだ男がいる。ひょっとこだ。涙がしきりに流れる。水を含むとピューと口から吹き出る。こりゃあ大変だ。 早速主治医の所に駆けつけると、すぐに耳鼻科に紹介された。左顔面の麻痺。帯状疱疹からくるものと診断された。抗ウイルス剤が使えないので、ステロイド剤の点滴を受ける。ビタミン剤なども処方された。毎日の点滴が始まった。休日にはステロイド剤の錠剤をもらった。これは懐かしい。 私は五十代後半に血小板減少症を患った。以後ステロイド剤を飲むのが日課となった。六十代半ばに、まだその関係が不明であったピロリ菌除去を人体実験していただき、見事血小板が回復した。医学に貢献したことを誇りに思ったものである。それから十年以上経ってステロイド剤に再会した。いとおしむように服用した。 顔面の麻痺は徐々にゆるんできたが、多量の涙が出る。味噌汁をすすると左の唇からぴゅうっと飛び出す。周囲の笑いを誘うが、自分自身はひょっとこのお面に対する親密感を覚えるようになった。 広島大学病院の眼科検診で、すてきな青年医師から、眼が完全に閉じないため乾燥し、そのために涙が出るとのこと、また麻痺は眼の内部には及んでいないから安心するよう診断された。いただいた薬を眼の縁に塗ると、涙がぴたりと止まった。 4 花の雲 病院の帰り、すぐ側の山が明るく輝いているのに気づいた。桜だ。そうか、外の世界はいま桜なんだ。近くのスーパーマッケットでお弁当を買い、妻と山に登った。満開の桜。感動した。すてきな花見をした。 よし、邪念を戒めながら、前向きに病気に立ち向かおう。改めて勇気が湧いたきた。ひょっとこのお面が優しい翁の面(おきなのおもて)に変わり、頭の重い鉛が花の雲に代わり、やがて散って行くことを願いながら。 2014.4.2 川野正博 |