藤 戸 残 照

                          
川 野 正 博

 

  世に住めば、憂(う)き節(ふし)(しげ)き川竹(かはたけ)の、杖(つゑ)(はしら)とも頼みつる、海人(あま)のこの世を去りぬれば、今は何にか、命の露をかけてまし、在(あ)りがひもあらばこそ、とてもの憂き身なるものを、亡き子と同じ道になして賜(た)ばせ給(たま)へ、と人目も知らず臥(ふ)し転(まろ)び、わが子返させ給へや、と現(うつつ)なき有様(ありさま)を、見るこそあはれなりけれ。

「この世に住んでいるので、つらいことが絶え間なく、杖とも柱とも思って頼みにしていた、漁師のわが子が、この世を去ってしまったので、今は何に、はかない命を託したらよいのか、生きているかいも、もはやないのです。どうせつらい身であるからには、いっそ亡くなったわが子と同じように、殺してください。」と言って人目もはばからず、身を投げ出してころげまわり、「我が子を返してくださいませ。」と言いながら、正気を失っている有様。それを見るのは、あわれなことであった。)

  これは、有名なの能「藤戸」のクライマックス。観客が最も泣くところです。  

 藤の花房が垂れる晩春の藤戸を、四十年ぶりに歩きました。

 小瀬戸から倉敷川を挟んで向いの種松山の麓まで、約2,5キロ。春の小道に草花が咲き、乾いた田に耕耘機が動く中を、薄い西日を頬に受けながら南にのんびり歩いてゆきました。民家がずいぶんと増えましたが、のどかな田園風景は残っています。八百年前、ここは海の底でした。

 元暦元(1184)年九月、屋島に逃げた平家は、再び勢力を挽回するため、海上交通の要衝「児島」に陣を築く。それを知った源氏は岡山側に追って来るが、船がなく、渡れない。当時の児島はまさに「島」で、今の倉敷川を中心に海が広がっていた。藤戸に陣を敷いた源氏と児島の平家の陣とは二五町(約2,5キロあまり)隔たっていた。平家は小船に乗ってやって来ては扇をかざして「こっちへおいで」とからかった。

 源氏方の武将佐々木盛綱は、浦の若者から、浅瀬のあることをひそかに聞き出した。盛綱は若者と二人で海に入り、その場所を確かめたが、手柄ほしさに、ことが漏れるのをおそれ、その若者を刺し殺してしまう。

 その翌日、盛綱は先陣を切って海に馬を乗り入れた。総大将源範頼は止めたが、かまわず海を渡り対岸に打ち上がった。これを見て三万余騎が続く。戦いは夕方まで続き、敗れた平家は残った船で屋島に逃げた。海を馬で渡るという快挙により、盛綱は児島を賜った。 と、ここまでは平家物語巻十にあります。

 ここからが、能作者(作者は不詳)の真骨頂です。一年後の春、領主として児島に意気揚々と乗り込んだ盛綱は、人々の訴訟を受け付けます。するとひとりの老婆が現れ、古歌を引きながら罪なきわが子が海に沈められた理不尽さを説きます。この老婆が、あの浦の若者の母であることを知った盛綱は、一年前の出来事を詳しく語り、前世からの因縁と思って諦めるよう説得します。しかし、母が子を思う心の強さを語り、「わが子を返せ」と迫るのです。盛綱は心うたれ、音楽を奏でた盛大な供養をし、17日間は殺生禁断としました。やがて、若者の亡霊が現れ、恨みが消え、成仏できることを謡います。

 作者は晩秋の事実を変えて、晩春にしました。この話の悲惨さと人々の心の動きが、晩春にふさわしいと考えたのでしょう。後に盛綱が、戦いに関わったすべての人々の供養にと建立したのが、今の藤戸寺であると伝えます。当時、藤戸寺の前は海で、向いの倉敷女子短大のある岡のあたり、小瀬戸の地に源氏の陣があったものと思われます。

 海底であった田園を横切り、水のわずかに流れる吉岡川を渡ると、盛綱が上陸したと伝えられる粒江の西明院があります。西明院には、盛綱の先陣庵があり、鐘楼の四方には盛綱と漁師の物語が浮彫されていました。その鐘楼から一望される、晩春の残照に浮かぶ藤戸は、八百年の時を経て海が里に変わり、船が耕耘機に変わりました。しかし、自己の営利や名誉のために人の命を奪う事件は今も続きます。また、我が子を思う母の気持ちも変わらないと信じます。

  やがて夕靄の中に沈みゆく藤戸の里は、春の愁いに満ち満ちていました。                           

      ( 2002.5.3記・「チャーリングのひろば」第12集掲載 

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