さらば ピロリ菌よ
                    
 
  「一度ピロリ菌を検査してみませんか。」
  主治医からいきなりそう言われたのは、一年前であった。初めて聞く名前だったので、大いにとまどってしまった。 「ピロリ菌」なるものはいったい何ものなのか。矢継ぎ早の質問をした。いろいろと教えてもらい、説明文を読んでいくうちに、次のようなことがわかってきた。
  いままで西洋医学では、胃の中は酸性が強くてとても細菌は生存できない、と考えられてきた。実際に西洋人の胃には細菌は見つからなかったという。日本の医学者はその説を当然と考え、調べることをさえしなかった。ところが、1979年に、オーストラリアの病院のウォーレンとマーシャルという学者が胃の中に細菌がいることを発見し、その菌が胃炎を起こすことを、みずからその菌を飲んで証明した。1983年に学会で発表され、世界中の学者が仰天したという。早速日本でも研究され、1984年に兵庫医大ではじめて培養に成功した。
  その後の調査で、なんとインドから東アジアの人々の胃に多く住み着いていることがわかってきた。日本では、40代の人の40%が持ち主で、50代で60パーセント、私のような60歳以上では80パーセントの人が持っているという。ところが、20代以下では20%にすぎない。これはどういうことなのか。さらに、この菌は幼児の胃に住み着き、おとなになってからでは住み着くことができないことがわかってきた。
  この新しく発見された菌は、Helicobacter pylori(ヘリコバクター・ピロリ)と名付けられた。ヘリコはヘリコプターと同じで、らせん・旋回を意味し、バクターはバクテリア(細菌)、ピロリは胃の幽門部を指す。4ミク
ロン(4/1000o) の大きさで、4〜8本のべん毛をスクリューのように回転させ、その力でらせん状の本体を回転させながら、胃の下部の幽門部や十二指腸付近を移動するという。さらに、この菌の最適環境はpH6〜7の中性から弱酸性で、pH4以下の酸では生活できない。しかし、胃の酸度はpH1〜2の強酸。とても無理である。ところが、このピロリ菌は、みずからウレアーゼという酵素を出し、胃の中の尿素をアンモニア(アルカリ性)に変えて、自分の周囲の環境を中和するという。こんな離れ業で、胃の中でも比較的酸度の薄い幽門部の粘膜に住み着いたのだ。そしてわるさをする。胃潰瘍や十二指腸潰瘍を引き起こし、さらには、胃ガンや胃のリンパ腫にも関わっているという。
  もともとこのピロリ菌は、古井戸などに住んでいたらしい。酸度の薄い幼児のとき、その水と一緒に胃にたどり着き生活を始める。胃の成長とともに徐々に酸への抵抗力を付けていく。上下水道が普及した今日、青少年に少ないのはこういうことだったのである。ただ、親の口から子の口への移動が確認されていて、子供も0%にはならないようである。では、西洋人にはなぜいないのか。もちろん水管理が良いこともあろうが、欧州が多くアルカリ土壌で、もともとピロリ菌が住めないことも影響しているらしい。さては、昔から多くの日本人を悩ましてきた胃潰瘍は、ピロリ菌の仕業だったのか。芭蕉や漱石を悩ませたのはピロリ菌だったのかもしれない。 
  さて、私の病気の場合はというと、胃とは関係なさそうな、血小板の減少する病である。ところが、主治医によると、最近、ピロリ菌を除去すると血小板が増加するという報告例があったという。そこで、私にも実験してみようということになった。私は喜んで?実験台になった。内視鏡検査をすると、予想通りいるはいるは。それから10日間抗生物質などを飲み続け、下痢やだるさに耐えて一か月後、見事除菌に成功した。もう私の胃にはピロリ菌は住めない。
  突然に発病して7年間、あれほど数値が上がらないために悩んでいたのに、なんとどんどん血小板の数が上昇するではないか。月に一度の血液検査が苦痛であったが、それからは楽しみに変わった。数値はかなり正常値に近づいてきたが、最近は上昇傾向が鈍り、まだほかにも原因があるらしい。しかし、ピロリ菌が血液にも大いに関係していることを身をもって証明し、大げさではあるが、日本の医学に貢献したことを誇りに思いたい。
  やがては除菌されて、すべての日本人に胃の中からピロリ菌がいなくなるであろう。回虫がそうであったように、数千年の間、日本人とともに生活してきた彼らに別れを告げる時期は近い。どこへ行くピロリ菌。古井戸もなくなり、沼地も干上がり、すべてが無機質化していく日本列島に、もうおまえたちの住む所はなくなるであろう。さらば、数千年の友、ピロリ菌よ。私たち自身がおまえたちの道をたどらないことを願いつつ。
 
    
(2003.8月 「チャーリングのひろば」掲載)